2021/02/09 ときわ台散歩 02 城山熊野神社/首都高速5号池袋線/西熊野神社/常楽院/さやの湯処/前野熊野神社

志村坂上駅南側エリアへ移動。
途中首都高速の高架をくぐる。



◆城山熊野神社

google mapでは「城山熊野神社
現地では「志村熊野神社」とあった。
どちらでも正解みたいだ。

参考
志村熊野神社|板橋区志村の神社、志村将監勧請、志村城跡



志村城跡と熊野神社
 志村城は、康正二年(1456)に千葉自胤が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、赤塚城の前衛拠点とした。
 本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ”守るに易く攻めるに難し”といわれる堅城であったが、大永四年(1524)に北条氏綱に攻められて落城した。
 熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。長久三年(1042)、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。現在の社殿は昭和32年に改築されたものである。社殿の西側には今でも空濠の跡を見ることができる。


志村城跡


招魂社


大山阿夫利神社/榛名神社/御嶽神社/天照皇大神宮/八幡神社/桃花稲荷神社/溜下稲荷神社


絵馬堂



志村熊野神社所蔵絵馬・肩額(へんがく) 付寄進札
 当社所蔵の絵馬と肩額はその多くが江戸時代中期から大正期にかけて、地域住民により奉納されたもので、絵馬八十二枚、扇額九枚、寄進札四枚が現在奉納されています。
 絵馬には、参詣図や神話図、物語図など多様な画題がみられますが、特に注目すべきは伊勢太々神楽奉奏の様子を描いた寛政七年(1795) の大絵馬です (110.5cm×121cm)。
 伊勢太々神楽とは室町時代末期から江戸時代を通して、伊勢や熱田の大神宮の御師·社家の神前で奉納された神楽です。参宮者は祈願成就と参宮の証しとして、この神楽奉奏の様子を絵馬に描き、地元の氏神様に奉納しました。当社の寛政七年の伊勢太々神楽奉奏図絵馬は区内で最も古
い絵馬であるとともに、同様の神楽奉奏を描いたものとしても最古級の絵馬です。
 現在、絵馬と扇額および寄進札は絵馬殿内に架けられて保存されています。当絵馬殿は江戸時代中期から後期に建築された入母屋造の旧拝殿を移築 (曳き屋)したもので、虹梁(こうりょう)・肘木(ひじき)には繰り形彫刻の意匠が施されるなど、小規模ながら建立当時の大工技術や社寺建築の特徴が窺えます。
 志村熊野神社所蔵絵馬・肩額は当社に対する地域住民の信仰が明らかとなる資料として、平成二十一年度に板橋区登録有形文化財となりました。


楽殿


熊野神社の樹林



 熊野神社一帯は中世城郭の志村城の比定地にあたり、樹林部分には空堀と土塁の跡も観察できる。樹木全体の面積は約1920㎡とかなり広大な広さをほこる。昭和四十年十一月一日に「都市の美観風致を維持する左めの樹木の保存に関する法律」により「熊野神社内樹林」として指定された。
 武蔵野の面影を残す区内でも数少ない樹林のひとつであり、鳥居から社殿までの間には比較的常緑樹が多く、スダジイイチョウ、イヌシデ、ケヤキクスノキ等がみられ、社殿裏並びに西側の空堀を含む一帯にはケヤキ、イヌシデ、コナラ、アカメガシワ等の落葉樹の間にシロダモ、アオキ等の陰樹(いんじゅ)が生育しつつある。
 平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。


板碑等


鳥居










首都高速5号池袋線

こちらをくぐって反対側へ。











◆西熊野神社



 御祭神は伊佐那岐命、伊佐那美命。
 前野町には熊野神社が二社あり、西方に鎮座する当社は西熊野と呼はれています。
 創建年代は不詳ですが、口碑によると志村城山の熊野神社より分祠されたとされています。明治二年 (1869)の社寺取調下案には、寛文二年 (1662)の検地帳に当社が記載されているとあり、寛文二年以前から鎮座していたことがわかります。
 文政十一年 (1828) 成立の『新編武蔵風土記稿』には「熊野神社二 共に村の鎮守なり、常楽院持下同じ」とあって、 江戸時代には常楽院が別当として社務にあたり、旧前野村の鎮守として村民から崇敬を集めていたことが記されています。
 境内には榛名神社三峯神社猿田彦神社が祀られています。この内、榛名神社は、榛名講が明治二十八年に奉納したものです。また、三峯神社は大正五年 (1916) 頃に現在の前野町五丁目十番にあった「一夜塚」から遷したものです。
 当社所蔵の絵馬・扁額は、平成二十二年度に板橋区の登録有形民俗文化財となりました。


楽殿


大日大聖不動明王











◆常楽院



 御本尊は不動明王。宗派は真言宗豊山派。熊野山法界寺と称します。
 常楽院は、法印賢鏡の建立した逆修碑が寛文十年 (1670)四月であるため、正保・慶安年間(1644~52に開山したと推定されます。明治十年 (1877)九月、同寺の住職が幕末に寺子屋を開いていたことにより、寺内に中仙学校(現志村第二小学校の前身)が開設されました。
 同寺の墓地に立つ板碑は、正面に阿弥陀三尊種子が薬研彫りで刻まれています。紀年銘は明らかではありませんが、龍福寺 (小豆沢四丁目)の建長七年 (1255)の板碑とよく似ており、常楽院の板碑も建長年間に造立されたものと考えられます。平成元年度に板橋区有形文化財に登録され
ています。
 同寺に所蔵の、絵馬四点と扁額二点は、平成二十三年度に区有形民俗文化財に登録されています。
 また、同寺の周囲には弥生時代末から古墳時代初頭の前野町遺跡群があります。出土した土器は、板橋区有形文化財に指定された後、平成十年度には、前野町遺跡出土弥生土器として五十九点が東京都有形文化財に指定されました。なお、これらの土器は、寺内の展示室に保管されています。


前野町遺跡出土弥生土器

 前野町遺跡は武藏野台地の緣部に広がる集落跡です。昭和十三年から十四年にかけて杉原荘介が発掘調查を行い、出土した土器は弥生時代終末の「前野町式」土器として設定されました。
 同時期、常楽院に転住した守山聖真は、寺院周辺の区画整理で掘り出された遺物の収集と保存に尽力します。昭和三六年、杉原荘介は常楽院(五十六点、現存五十三点)、明治大学博物館(六点)所蔵資料を図示し、「前野町式」土器を再定義しました。
 「前野町式」土器は壺・台付甕・高坏・鉢・器台・小形壺で構成されます。土師器の研究が進む過程で、「前野町式」土器の中には古墳時代初頭の土師器が含まれていることが明らかとなり、現在これらの土器は「弥生時代終末から古墳時代初頭」の時期に位置づけられています。


堂宇


牛頭天王祠堂


山門


山門前の石仏・石塔等

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入口










◆さやの湯処

何回か来たことがある温泉。
懐かしい。











◆前野熊野神社


榛名社/月山社/飛鳥社


庚申塔

すべて庚申塔のようだ。


楽殿


鳥居


参道入口


境内にあった観光マップ






続く。