2021/02/09 ときわ台散歩 06 常盤台南口商店街/板橋消防署常盤台出張所/ときわ台天祖神社/神社通り商店会/平安地蔵/常盤台銀座

ときわ台駅南側エリアを散策。
そういえばときわ台駅には行かなったなあ。



◆常盤台南口商店街

商店街♪








◆板橋消防署常盤台出張所







ときわ台天祖神社

下記のページでは板橋天祖神社となっていた。
板橋天祖神社|板橋区南常盤台の神社



 天祖神社主祭神として天照大御神を、配祀神豊受姫命、大山昨命をまつる神社です。
 寛政九年(1797)江戸時代の代表的な文人大田南畝が当社を参拝したことが地誌「武江披砂」にあり「上板橋の石橋を越へ、右へ曲り、坂を上り行。岐路多くしてわかりがたし。左の方に壱丁余り松杉のたてる所あり。此はやしをめあてに行ば、神明宮あり。長命寺の持なり、松老杉枝をまじへて大きなる柊もあり。宮居のさまも藁ぶきにて、黒木の鳥居神さびたり」と記されています。このように当社は江戸時代「神明宮」(神明社とも)と称されていました 。
 創建については不詳ながら、鎌倉時代後深草天皇(執権北条時頼)の康元年間という伝承があります。当社の別当寺・長命寺の本寺は北条時頼の創建とされる安養院(武王山最明寺)であることから、当社の創建も、この上板橋地域の中世の歴史と深く関わりがあることが考えられます。
 明治五年(1872)には村社と定められ、明治六年には東京府の命により天祖神社と改称し現在に至ります。境内にある弘化三年 (1846)の狛犬の 台座には、円形のへこみがあります。これは 昭和二十年 (1945)六月十日の空襲の折にできたもので、当時の空襲被害を今に伝える数少ない遺構の一つです。



 当社はかつて「神明宮」と称され、日の神、皇室の祖先神である「天照大御神」を主祭神とし、天照大御神のお食事をつかさどる「豊受姫命」、徳川家の産土神、お酒の神として知られる「大山昨命」をあわせてお祭りしています。

  御末社は、向かって右から次のとおりです。
  稲荷神社(宇迦之御魂神 - 稲憲、食物の神さま)
  北野神社(菅原道真公 - 学問の神さま「天神さま」)
  日枝神社(大山昨命)
  月読神社(月読命 - 月の神さま)
  伊勢神社(大日孁貴命 - 天照大御神の古称)」
  榛名神社(火産霊神・埴山比売神) - 少し離れたところにある石祠

 お末社の伊勢神社、月読神社からも、当社が伊勢の神宮と深いつながりをもっていたことがうかがわれます。日技神社は、江戸時代には権現社と移し、旧上板橋村向屋敷にありました。榛名神社は、群馬県から勧請した社です。


榛名社



境内社

一番右が稲荷神社であることしかわからなかった。
残りは上記の説明板から「北野神社、日枝神社、月読神社、伊勢神社」であろう。


楽殿



楽殿にはお雛様が飾られてた。
そういえばもうすぐ雛祭りかあ。


参集殿


鳥居







◆神社通り商店会










◆平安地蔵



 昭和二十年(1945)六月十日、午前七時五十五分より約2時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者269名、重傷者86名、建物の全壊260戸、投下爆弾(250kg級)116個、罹災者2,467人、罹災世帯498世帯といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年(1948)六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年(1995)度、板橋区の記念物に登録されました。


平安地蔵尊由来

 この地は、大東亜戦争末期の昭和三十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機三十数機の編隊により数百発の爆弾を投下され一瞬にして修羅の巷と化し、死者二百八十余名を出せり
 ここに繊細死没者永遠の冥福を祈るため地元有志発起人となり、昭和二十三年六月七日平安地蔵尊を建立する。

※その後の碑文は判読できなかった・・・。








◆常盤台銀座

商店街♪








続く。