2021/02/16 板橋栄町散歩 01 板橋本町駅/中山道陸橋/氷川児童遊園/双葉町氷川神社/双葉さくら通り/智清寺

24時間勤務アケで、都営三田線板橋本町駅から東京メトロ千川駅まで散歩。



環七通りを西に進んで双葉町氷川神社をお参りした後は、南東へ進んで中山道へ出る。



◆板橋本町駅

スタートの都営三田線板橋本町駅









中山道陸橋

下は中山道と環七の交差点。
中は環七の立体交差。
さらに上は首都高速5号池袋線








◆氷川児童遊園








双葉町氷川神社



 御祭神素盞嗚命
 創建年代は不明であるが、社伝によると応永年間(1394-1427)に大宮氷川神社から勧請されたと伝えられている。当社は松山氷川大明神と称し、旧根村、板橋宿上宿の産土神として崇敬された。
 相殿(あいどの)として祀られている倉稲魂命は、もと下板橋稲荷台の新堀山に鎮座していた新堀稲荷社で、板橋城廃城後、太田道灌の家臣新堀氏がこの地で奉斎したもの。下って、明治四十年合祀令によって氷川神社に合祀された。


稲荷社



徳玉稲荷神社



徳玉稲荷神社の由来
 昭和六年五月八日、板橋七丁目一現在 の稲荷台二十六番地七一の鈴木鋳工所の 邸内社として伏見稲荷大社より勧請、建立された。御祭神は同大社摂社の大八鳴大神 と関りがあると伝えられている。
 建立した鈴木武夫氏は昭和二年に鋳造業を起業、二代目鈴木吾郎氏は本鳥居を鋳造し、当永川神社の総代を務めた。
 二代にわたる当神社との所縁から、鋳造学者の三代目鈴木克美氏の願いにより、 令和二年十二月、当神社に移築された。
 「商売繁盛」ゃ「心願成就」にご利益があると、遠方からも参拝者が訪れる。


庚申塔


楽殿


神門


鳥居1


鳥居2







◆双葉さくら通り

商店街♪








◆智清寺



 御本尊阿弥陀如来。宗派浄土宗。龍光山恵照院と称する。
 室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたと伝える。天正十九年(1591)徳川家康により寺領5石を寄進された御朱印寺である。
 境内には、板橋上宿の名主板橋市左衛門家歴代の墓碑や、明治初年前田家下屋敷払い下げに活躍した小松了従の墓碑、そして明治の歌人相沢朮の墓碑などがある。
 山門前にある正徳四年(1714)の石橋は、江戸から大正時代に使用された中用水に架けられたもの。中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもので、明治5年板橋町と下流の上十条村以下7ヶ村との間で配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった。同石橋は、昭和六十年度の板橋区登録文化財(史跡)に認定された。



雪廼舎相沢朮(ゆきのやあいざわおけら)の墓
 文政八年(1825)年越後国六日町の医者石川有節の長男として生まれる。幼名は富蔵、諱は高尚、後に玄英、周碩と改める。医術を江戸の大久保東渓や成田宗信に、蘭学を大阪の六人部右衛門に学ぶ。弘化三年(1846)年三河国西尾藩主松平乗全の測医相沢良安の養子となり、その娘扇子と結婚して江戸に住む。後に家督を継いで湛庵と改める。明治元年西尾に移り、明治三年朮の名を藩主乗秩より賜る。
 朮は文学を好み、漢学を江戸の前田観海、桑名の森樅堂に、和歌を井上文雄、加藤千浪、佐々木弘綱に学ぶ。明治九年東京に移り、医を開業するかたわら和歌を楽しむ。明治二十年板橋町に居を構えると医を離れ、門人への和歌の指導に専念する。
 明治三十七年五月二十八日逝去。享年81歳。親族の眠る智清寺に埋葬される。法名修徳院仁誉高尚居士(しゅうとくいんにんよこうしょうこじ)。


阿弥陀堂


地蔵尊・他


木下藤吉郎稲荷



山門


参道







続く。