2021/02/20 赤羽台散歩 02 赤羽八幡神社/東北線(59)袋ガード/赤羽北児童遊園/稲荷の坂/穀蔵稲荷神社/満蔵院/お玉湯

赤羽八幡神社へお参り後は、また「東北線(58)板橋街道ガード」をくぐって線路の東側へ。
ここから線路が二股に分かれる。
東北線(59)袋ガード」で二股に分かれている中間地点へ入る。



◆赤羽八幡神社



 赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇日本書紀によれば応神天皇の父)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后日本書紀によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷5ヶ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり、現在もその地域の総鎮守となっています。
 創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782~806、平安時代坂上田村麻呂(758~811、平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として崇敬され、征夷大将軍の職名は永く部門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995~9、平安時代源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154~56、平安時代源頼政が修造を加え、応永(1394~1428、室町時代)正長(1428~29、室町時代)の頃、地頭であった太田資清太田道灌の父)が社領として1貫文の地を寄進し、文明元年(1469、室町時代太田道灌が社殿を再建したといいます(岩淵町郷土誌)。
 これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二十年(1551)の寄進状が伝えられており、その文面は、
   岩淵之内赤場根八幡領之事、合壱貫文之所者
   右為社領如前々聞之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を為本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如
   件天文廿年辛亥十二月廿八日 太田新六郎 
   康 資 葉押
   八幡 禰衹 朝日興五右衛門殿
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
 また「新編武蔵風土記稿」に「赤羽根村・・・今ハ東叡山(寛永寺)及伝通院村内宝幢院八幡社領入曽ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649)に七石余の朱印が付されていることから(岩淵町郷土誌)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に7石余有していたことも確実といえましょう。
 現在の社殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬が3枚納められています。
 この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(東京都遺跡地図、東京都教育委員会)。
 この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一四段工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。
 明治五年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同20年、第一、近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等が相次ぎ、赤羽は陸軍の町となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などは、その当時の名残りです。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。



赤羽八幡の絵馬額
 この八幡の創設は不明ですが、一説に延暦年間(782~805)坂上田村麻呂が東征のおり戦勝を祈って当社を祭ったものといわれています。
 その後長徳年間(995~998)に源頼光が社殿を再興した後、文明元年(1469)太田道灌が社殿を再建したと伝えられています。いずれにしても古い神社であることはたしかのようで、絵馬堂内の数多くの絵馬額は有名です。



勝負事の神
遠く平安時代桓武天皇の御代(782~806)、東北地方はまだまだ反乱多く、その征伐に 桓武天皇坂上田村磨を征夷大将軍として起用し、東北地方の征伐に向かわせた。
途中、坂上田村磨はこの赤羽台の地に陣を張り、八幡大神を勧請し、武運長久を祈り無事東北地方を平定した。勧請された八幡大神は武力・知力の御徳高く、後に源氏をはじめ武家の守り神とされた。赤羽八幡神社は平安初期の代表的な武将であり、国家守護の力とされた坂上 この地に開かれた歴史により、武力・知力の「勝負事の神」として、現在ではスポ ーツ選手等から篤く信仰されている。


稲荷神社


赤羽招魂社


大国主神社/疱瘡神社/稲荷神社/住吉神社/大山神社/阿夫利神社/御嶽神社/北野神社



北野神社のなで牛
「書道学問の上達・合格を祈願しながら、牛の像の頭をなでて下さい。」
 北野神社の御祭神、菅原道真は俗に「天神さん」と呼ばれ、学者・文人・政治家として優れていたところから、詩歌・文筆・学問の神として崇敬される様になった。近世には寺子屋で学問の上達を祈願する、天神信仰が普及した。
 御本尊である北野天満宮(955年創建)には、菅原道真が、丑年に生まれて丑年に亡くなったことから、牛の像が安置されており、牛の頭をなでると頭脳明晰になると信じられている。



縁結びの神 大国主神
大国主神社の御祭神は、因幡の白兎にも登場する大国主神(おおくにぬしのかみ)です。その姿は大きな袋をしょって打ち出の小槌を持った大黒様として広く知られています。天照大神への国譲りでは、目に見えない「縁」を結ぶ事を司ることとなり、旧暦十月には全国の神々が、大国主大神の許で縁結びの神議をされています。
「縁結びの神」として有名で、単に男女の縁を結ぶだけでなく、あらゆる幸運の縁を結ぶとされています。また、因幡の白兎神話で大国主神に助けられた兎は、後に大神と八上姫(やがみひめ)との婚姻の縁を取り持ったとされ、かなわぬ縁をかなえるとされています。



古峰神社


楽殿


因幡の白兎



  昔々、沖の島に住む一匹の白兎が、海を渡り因幡の国へ行こうと考えましたが、自力ではとても渡れません。そこでワニザメを騙し、対岸まで一列に並べさせ、その背中をぴょんぴょんと飛び 跳ねながら、あと少しのところで「君たちは騙されたんだよ」と思わず口走ってしまいました。
 怒ったたワニザメは、白兎の毛をむしり取り、丸裸にしてしまいました。兎があまりの痛さに浜で泣いていると、そこに大国主命(おおくにぬしのみこと)の兄神達が通りかかりました。 兄神達は隣の因幡の国に、美人の八上姫(やがみひめ)がいると聞きつけ、自分の妻にしようと向かっているところでした。
 兄神達は、「海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山の頂上で伏せていれば治る。」と兎に嘘を言い行ってしまいました。その通りにした兎の肌は乾いて破れ、血が吹き出し、傷口は塩がしみていっそうひどくなりました。兎が泣いていると、先を行く兄神達の、 持たされ大きな袋をかついだ大国主命が、遅れて通りかかりました。
 大国主命は、「おまえがワニザメを騙したのをこらしめる為に、兄神達はおまえに嘘を教えたのだろう。もう誰も騙してはいけないよ」と言い、「河口に行って、真水で体を洗い、蒲の穂を付けなさい。」とおっしゃいました。すると兎の体には、どんどん元の白毛が戻り始めました。 感謝した白兎は、「八上姫は、兄神達ではなく、大国主命を選ぶでしょう」と予言しました。 白兎の予言通り、八上姫は兄神ではなく大国主命をお選びになり、ふたりは結ばれたのでした。 この神話により、因幡の白兎は「特定の人とのかなわぬ縁を結ぶ」 「特定の人との親交を深める」とされ、大国主命とともに 「縁結びの神」として篤く信仰されています。


猿田彦庚申塔



 猿田彦日本書紀天照大御神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神として記載されていたことから、 道の神、旅人の神として祀られ、近世期には庚申塔に多く彫られ るようになりました。 旧板橋街道近辺(現在の区道北一五五五号線付近)には庚申 信仰の本尊として青面金剛が彫られた庚申塔のほか猿田彦神が彫 られた庚申塔が江戸時代から多く設置されていましたが、明治時代から大正時代にかけて、旧板橋街道を含む一帯に陸軍被服本廠が設置されると、本廠周辺にあった庚申塔は本廠敷地内に集約されました。 戦後、被服本廠の敷地は進駐軍による接収を経て、日本住宅公団 (現UR都市機構)の赤羽台団地となりました。団地建設に伴い、昭和三七年に庚申塔は旧赤羽台団地四九号棟付近に移設されました。 移設後は、「赤羽台猿田彦神社」として赤羽台団地の住民のみ ならず地域の守り神として長年崇められてきましたが、赤羽台団 地の建替に伴い、本神社に平成二九年四月に移設されました。


大塚稲荷神社


石仏・石塔等


日露戦没記念碑


参道階段


鳥居1


鳥居2


神社境内からの眺め









東北線(59)袋ガード












◆赤羽北児童遊園









◆稲荷の坂

坂下。


坂上


この坂道は、赤羽北1ー3・4地先から赤羽台4丁目公園付近まで続きます。道筋としては赤羽根村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と分かれ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂ともよばれるようになりました。









◆穀蔵稲荷神社



郷蔵跡と稲荷社
 江戸時代、ここには袋村の郷蔵がありました。郷蔵は年貢米の保管や凶作に備えて穀物を保管しておくための倉庫です。
 嘉永三年(1850)八月の村絵図によれば、敷地内には蔵と建物の背後に杉の立木が描かれています。この絵図に関する古文書によれば、これは火事を防ぐための火除の立木であると書かれています。また、このときの村明細帳によれば、郷蔵は「籾牌貯穀囲蔵(もみひえちょこくかこいぐら)」と呼ばれ、初八斗三升一合と稗三十六石八斗五升が貯えられ、このほかに稗四十四石の積立計画が領主の命によって実施されていました。これによって、ここは年貢米の保管というよりは、どちらかというと災害や飢僅の際に、村の人々が飢餓から自分達を守る備荒貯蓄を目的とした郷蔵だったことがわかります。
 現在、ここには大正七年(1918)三月に建立された石造の鳥居と一対の狐像があり、「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地となっています。「ゴクライナリ」という名称は、郷蔵の「ゴウ」の「ウ」が詰まって発音されたり、あるいは、「御蔵」ともいう郷蔵の「御」を「オ」といわずに「ゴ」と言ったりした結果とも考えられます。稲荷社は「守倉」稲荷と称されていた時期もあり、また、現在は、「穀蔵」稲荷と称
されていますが、これらも「ゴクラ」と読まれており、かつては、ここが郷蔵であったことを示唆しています。


小袋庚申堂の石造物群



 この地域は、江戸時代には袋村と称され、村内は「大袋」と「小袋」の辻子(ずし)と呼ばれる二つの地域からなっていました。ここは、小袋という辻子だったので、庚申堂も小袋庚申堂と呼ばれるようになりました。庚中堂には、稲荷社の社殿より遠いほうから順に、次のような
石造物が安置されています。

弘法大師供養塔
阿弥陀三尊種子庚申待供養塔(あみださんぞんしゅじこうしんまちくようとう)    元禄十五年十一月(1703)
阿弥陀三尊種子千日念仏供養塔(あみださんぞんしゅじせんにちねんぶつくようとう) 寛文八年二月 (1668)
庚申供養青面金剛立像(こうしんまちようしょうめんこんごこうりゅうぞう)     宝永元年九月 (1724)

 ここには、庚申信仰についての石造物が二基あります。これらは、人の体のなかに住む三尸という虫が、千支でいう庚申の日の夜に、体
内からぬけ出して天帝に悪事を告げ、人の命を縮めてしまうというので、虫が体内から出ないようにと一か所に集まって夜を徹して供養を
行った記念に、袋村庚中講中の人々によって建てられたものです。
 弘法大師の供養塔は、真言宗を開いた空海の遠忌を記念して建てられましたが、一部が破損していて造立年代や造立者は詳らかではあり
ません。
 千日念仏の供養塔は、時間や回数をきめて千日間、南無阿弥陀仏という名号を唱えれば浄土に往生できるという信仰儀札の記念に建立さ
れた塔です。袋村を中心とする十六か村の名主や結衆によって建立されていますが、このような複数の村の人々によって建てられた供養塔はあまり例がなく、貴重な文化財といえます。
 これらは昔、現在の赤羽北児童遊園入口付近の路傍にありましたが昭和三十年代の前半、現在地に移されました。









◆満蔵院



青面金剛


地蔵


山門









◆お玉湯

銭湯♪








続く。