2021/03/04 赤羽西散歩 02 陀枳尼天社/普門院/明和六年銘の庚申塔/真正寺坂/稲付香取神社/法真寺

岩槻街道を離れて細い路地を西へ進む。
坂が多くなる。



◆陀枳尼(ダキニ)天社










◆普門院


「?」

なんの施設なのかわかりません。
ご存じの方教えてください。
ぺこ <(_ _)>


山門


門中六地蔵


近くにいた猫










◆明和六年銘の庚申塔











◆真正寺坂

坂下。



坂途中。



坂上



岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。坂の北側(赤羽西2-14-6付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和6年(1769)11月造立の庚申塔に「これよりいたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。かつて稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう(真正/身上)昇る」といって登ったそうです。









◆稲付香取神社



香取神社本殿
 香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋(おおいや)の中に安置されています。朱塗りの三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、屋根は杮(こけら)葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約10尺、奥行約八・三尺の社殿が建てられています。香取神社は、経津主神大山咋神建御名方神を祭神としています。『新編武蔵風土紀稿』には「村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり」と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は17世紀半ばの郷帳(『武蔵田園簿』)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西2丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営のも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに、上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは、徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営いた際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永四年(1627)に落成したことが知られています。


稲荷社



榛名社/古峰神社/御嶽神社/大山阿夫利神社



楽殿


力石



稲付村の力石
 ここにある七つの石は、その一つに「さし石」と刻まれているカ石です。
 江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸がすぎるころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、村内のカ自慢の若者たちが集まって、石の「サシアゲ」などして、カくらべをしたといいます。
 七つあるカ石のうち、五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも十九貫目(約71kg)、重いものでは五十五貫目(約206kg)もあります。また、六つの石には、「小川留五郎」と名前が刻まれています。留五郎さんは、 付村一里塚跡付近にある根古屋の小川家の人で、カが強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇 にある明治三十九年(1906)五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。 明治四十年(1907)六月十三日に五十一歳で亡くなりました。力石は小川家に保管されていましたが、昭和四十年(1965)頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
 カ石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占(いしうら)に用いられ、後には、若者たちのカくらべをするための用具ともなっていきました。このカ石は往時の稲付村の風俗·習慣を示す貴重な文化財です。


鳥居


参道階段










◆法真寺


三十番神


鐘楼


山門


参道入口

左側に建っているのが社標。
だいぶ離れたところにあった。








続く。