2021/03/06 東十条散歩 01 東十条駅/十条跨線橋/子育て地蔵尊/地蔵坂/地福寺/中十条二丁目歩道橋/中十条公園

24時間勤務アケで、JR東十条駅の周りをぐるっとした後、JR十条駅まで散歩。



最初は東十条駅西側エリアを散策。
岩槻街道に出て北に進む。



東十条駅

スタートのJR東十条駅










◆十条跨線橋

すぐ駅前。



十条駅ホームから。











◆子育て地蔵尊



地蔵坂の子育地蔵尊
 地葳堂は、以前は地蔵坂の中腹にありましたが、昭和六年(1931)の下十条駅(現東十条駅)開通、昭和十二年の道路拡張により現在地に移されました。
 地蔵堂の中には、大小の地蔵草と二基の石像が始められています。このうち、中央の大型の地葳尊(高さ95cm、丸彫立像)が子育地蔵尊です。背面に「世話人 弥八、願主 善光」と刻まれています。本地葳尊の建立年代は不明ですが、安永二年(1773)成立の「新編江戶志」には「地蔵坂 往古ハ此坂の辺に地蔵尊ありしゆへに名つく」とあり、江戸時代には地蔵草が存在していたことがわかります。
 地藏信仰は、平安時代中期以降、子どもを守護L身近な願いをかなえるものと して全国的に広まりました。本地蔵尊は、北向きに供養され、家内安全と子どもの健ゃかな成長を祈願する方々のお参りが絕えません。昭和四八年に地蔵堂を寄進した高木家と近降の有志によって子育地蔵尊奉贊会が結成され、每年九月二十四日に法要が行われています。
 地葳堂の前面には、「当村 願主 高木兵助」の名が刻まれた花立と、寛政三年(1791)の文字庚申塔があります。

[左側面]武州曹島郡下十条邑 講中 寛政三庚亥三月吉日
[正 面]庚申塔
[右側面]右より練馬みち 左より豊島みち










◆地蔵坂

坂下。



坂中。
だいぶ曲がりくねっているのがわかる。



坂上



江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には「地蔵坂往還ヨリ東二丁程二アリ」との記載がみえます。往還とは、日光御成道のことで、この坂を上っていくと日光御成道につきあたりました。坂名はこのあたりに地蔵があったことに由来します。現在の地蔵堂は、東十条駅 の開設にともなう跨線橋の設置や道路の拡幅により今の位置に移転したものです。


近くにいた猫

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◆地福寺


貞明皇后



つれづれの友となりてもなぐさめよ
        ゆくことかたきわれにかはりて
 ハンセン病にたいする偏見が社会に根強く残る昭和の初め、大正天皇の妃・貞明皇后は不運な病に見舞われた人々に深くお心を痛められ、温かい励ましのお言葉と共に多額のお見舞い金を廔々全国のハンセン病療養所にお贈りになられた。
 後年、そうしたお見舞いが、一足の足袋を繕っては履き繕っては履くという陛下御自身の御暮しをきびしく切り詰めた上でなされたものであることを知り、病者たちの感激は一入りであった。(「全生今昔」「繕われた足袋」)
 平成八年、らい予防法の廃止を機に、近代皇室によるハンセン病者救援事業の草分となった陛下の御事跡を永く世に遠すため、国立療養所多磨全生園内に「貞明
皇后像建立委員会」を結成、財団法人・藤楓協会の御協力を得て制作の運びとなった。
 完成されたお像は、広く一般の方々に御覧頂くため地福寺境内に一字「慰音堂」を建立し、これにお納めすることとした。

幾そ度御下賜(ごかし)給ひし皇后陛下
            ほつれ縢(かが)れるしろき足袋かも

 お像は、全生園駐在布教師・三輪照峰師詠の右の歌をテーマに、繕いを重ねた足袋を時の林 芳信園長にお譲り渡しになっているお姿を表現した。又、彫刻は同園療養者で元船大工・永見兼吉氏の勤刻である。


六地蔵

背丈がこんなに違うのは珍しいね。


庚申塔


庚申塔・石塔

一番右の大きいのは出羽三山


庚申塔・石塔


ビルマの竪琴

インパール作戦による犠牲者を供養する堅琴寺建立一周年記念に寄せて、うたう部隊(実は烈兵团58連隊吉本隊)一同の当時の思いをうたいます。
”戦争はご免だ”
2004年11月吉日

小說『ビルマの堅琴』の水島上等兵こと
中材一雄 元陸軍要長 88歲
群馬県利根郡昭和村川額
雲昌寺


太閤千代しだれ桜・一叢(ひとむら)の萩



太閤千代しだれ桜
 慶長三(1598) 年 三月十五日、日本史上もっとも豪勢な花見の茶会が、太閤秀吉によって京都の醍醐寺 (真言宗) において催されました。
 この醍醐寺の桜を現代の組織培養の技術によって蘇らせたのが、当寺の境内の「太閤千代しだれ」です。


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一叢(ひとむら)の萩
 昭和三十年代に入り、戦災で焼失した建物の再建が始まりました。
 貧しい時代に、貴重な浄財をご寄付下さった檀徒の方々に精一杯の感謝の思いを、一叢の萩の香りに託してささげ たいと願った、当山 第六十九世住職、中興(ちゅうこう)大僧正室 (三輪文恵)により仮本堂兼庫裡の玄関脇において、萩 の栽培が始まりました。
 こうした中興夫人の感謝の思いは、仏道 を歩む者の片時も忘れてはならない自戒として、家族の心に深く染 み入ったのでした。
 そして、いつしか萩の手入れはもっぱら住職夫人のお役目となり、今日では当山第七十世住職妻(同優子)によって大切に引き継がれています。

〈萩〉
枝にあふれる萩の小花は 在りし日の 母の微笑み
かそけくも 境内(にわ)に漂う 母のみ胸の 感謝の香り


水琴仏(すいきんぶつ)



 現代の名工,郡司楠峰の作。
 仏様のお体に流れ人って石底に落ちる水音が妙なる琴の調べの様にも、やがて私達を温かく励ますお薬師様のお説法の様にも聞こえてくるところから、「水琴仏」と称される。
 お参りの仕方は、石の頭部中火にたまった水を柄杓に半分はど汲んで、ゆっくりとそれを外側の水路(ミゾ)に流して堂を合わすだけ。
 あなたも、気忙しい日常を忘れて、無心一時を味わってはいかが。


東京大空襲

郷土の語り部 - お寺の椎の木(樹齢三百歳)  東京大空襲
 第二次世界大戦も終焉迫る昭和二十年四月十三日、午後十時四十分、長距離戦闘爆撃機 B29が352機の大編隊をなして王子、滝野川方面に襲来した。
 当時王子区には、軍事工場が集中していたため標的となったものだが、狙われたのは工場だけではなかった。一般民家も2037.7トンもの焼夷弾による統綴爆撃にさらされたのである。四時間に及ぶ空爆の結果
   豊島町、王子町、東十条、神谷町、志茂町、赤羽町、岩淵町、稲付一丁目、稲付二丁目、稲付出井頭町、稲付島下町、岸町、中十条一、二、五丁目、上十条四、五丁目、
 次々に町が被弾炎上。焼け跡から は、黒焦げになった子供の遺体や、爆風で手足を吹き飛ばされた人々が発見された。山なす屍を通じ、現代戦争においては、すべての国民が否応なく最前線に立たざるを得ないことを知ったのである。
 この空襲による被害状況は次の通り。

王子区
死者 182名
被災者 5379名

東京全域
死者 2459名
被災者 666986名

 当山でもご本尊、山門(江戸時代の建立)、水屋を除いて一山ことごとく灰に帰した。樹齢三百年を誇る椎の木も、焼夷弾の破片を浴びて炎上したが、奇跡的にも一命を取り留めた。
 焼け跡から立ち上がった人々の懸命な努力によって、日本は比較的早期に復興へ、そして高度経済成長へと、驚異的発展を迷げた。一方世界では紛争やテロが絶えず、日本を再び戦火に巻き込みかねない状況にある。こうした危機を回避し、平和を堅持するためには、戦争で辛酸を舐めた人々が、後世の私達に残していってくれたメッセージに耳を傾けることがもっとも有効だろう。それは、次の〈平和のための五つのメッセージ〉である。
〈メッセージ・一〉悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。
〈メッセージ・二〉人は、一人では生きられない。人の支えと自然のお陰様の中で生きている。この明白な事実に気づけば、戦争は起きない。
〈メッセージ・三〉人には皆、仏性(ぶっしょう)があるから平等で、貴践高下の隔てがない。肌の色や国籍、性別、病気、生まれや貧富によって、人を差別してはならない。自分を卑下してはならない。
〈メッセージ・四〉平和と繁栄の土台をなすものは教育である。国民は常に教育の向上に努め、自国と共に、国際社会の平和と繁栄にも寄与しなければならない。
〈メッセージ・五〉基本的人権とか命の尊厳なるものが、実は宗教に深く関わる理念であることに思いを致し、国民は慈悲と智慧に貫かれた仏教のすぐれた信仰を回復しなければならない。


山門









◆中十条二丁目歩道橋

下は旧岩槻街道











◆中十条公園



富士講富士塚
 富士山は水神や火山神のやどる霊山として古来から人々の信仰をあつめてきました。室町時代、富士山へ登拝すると数々の災難から逃れることができると人々から堅く信じられるようになり、富士山への参詣を通じた富士信仰が形成されてきます。
 富士講は、こうした信仰を背景に江戸時代、関東地方を中心に都市や村落社会に結成された庶民の慣習的な信仰団体です。
 講による富士信仰の基礎となったのは、 江戸時代初期に江戸市中で呪術的な医療活動によって流行病の治癒につくした畫行藤仏(かくぎょうとうぶつ)(長谷川武邦)という修験道系統の修行者の活動です。 また、中期には村上光清や食行身録(じきぎょうみろく)(伊藤伊兵衛)といった富信仰中興の修行者があらわれます。 特に身禄は、幕府の政治・経済政策の混乱、封建制の身分秩序による人々の苦難が「弥勤の世の実現」 という富士信仰思想によって救済されると述べ、これを男女の平等や日常生活のうえで人としての守るべき規範の積極的実践という考え方から説きおこしていきます。
 こうした考え方は社会秩序の混昆乱や男女差別·身分的差別に苦しむ当時の人々に広く受け入れられ、各地に富士山に登拝できない人々のために遥拝所として富士塚が築造されるにいたりました。十条富士塚も、このような富士塚の一つで、江戸時代には毎年5月晦日と6月期日、現在では毎年6月30日と7月1日に富士山の開山にともなう祭礼が催され、露店が立ち並び、数多くの参詣者をあつめています。

日光御成道
 岩槻街道は、江戸時代には日光御成道と呼ばれていました。歴代の将軍が、家康をまつる日光東照宮に参詣し、年忌法要(ねんきほうよう)を営むために通る専用の道でしたので、このように呼ばれました。また、江戸と城下町岩槻規(埼玉県)とを結ぶ街道であったので、岩槻街道とも呼ばれていました。本郷追分(おいわけ)(文京区)で中山道と分かれ、北区を縦断し、岩淵から川口へは荒川を船で渡ります。将軍の通行の時には、荒川に仮橋が架けられ、この渡り初めを岩淵の子どもたちが行ったといいます。街道は、川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て、幸手日光道中と合流しました。江戸から幸手まで、 12里30町 (約51km) でした。将軍の通行は大行列で、将軍に直接供奉(くぶ)する者だけでも2千人を越え、沿道の村々では、これらの荷物を運ぶため大量の人馬を負担させられました。
 一方、日光御成道は、 川口の善光寺阿弥陀如来の開帳が催されると、そこへ参詣する江戸や近傍の人々でも賑わうようになります。文政二年(1819)閏四月、善光寺を訪れた帰路、ここを通った村尾正靖(むらおまさやす)は、このあたりは豊島 ・神谷・川口の付近を眼下に望むことができ、遥かに江戸川や国府台(こうふだい)が遠望できたといっています。 同11年4月13日 (旧暦)善光寺の開帳に行くために通った十方庵敬順(じゅっぽうあんけいじゅん)も、この付近は北から南に見晴らしがよい場所とし、ここから雲雀(ひばり)の翔(と)ぶ姿をみて初夏の颯爽(さっそう)とした気分を紀行文にあらわしています。



みっけ♪






続く。