2021/03/10 新板橋散歩 02 東京家政大学/加賀庭球場/加賀橋/加賀橋公園/王子新道の碑/東板橋体育館/加賀西公園

JRの線路から離れ、細い路地を南西へ向かう。
加賀橋で石神井川を渡ったあたりをあちこち散策する。




東京家政大学



創立者は渡辺辰五郎。専門学校令による、日本で最初の服装を教授する専門学校であった。 名称が似ている、東京家政学院大学とは法人関係がない。 』
東京家政大学 - Wikipedia

大学内に博物館がある。
博物館|東京家政大学
是非行ってみたい。








◆加賀庭球場

板橋区のテニスコート








◆加賀橋

下は石神井川











◆加賀橋公園


南極の石



国立極地研究所と南極の石~
 国立極地研究所は、1973年(昭和48年)から2009年(平成21年)までの30年以上にわたり、加賀の地で極地に関する総合研究活動を続けてきました。
 この南極の石は、加賀のまちに国立極地研究所があったことを知っていただくために、国立極地研究所から加賀まちづくり協議会へ記念品として寄贈されたものです。
種別:縞状黒雲母片麻岩 「しまじょうくろうんもへんまがん」
観測隊次:第25次南極地域観測隊
初代「しらせ」が就航した最初の南極観測隊採取場所・時期南極·ブライド湾にて1984年2月採取

~加賀のまちつづくり~
 平成7年に発足された加賀まちづくり協議会では、加賀の地に住まい·働かれている方、行政関係機関、民間事業者等が参加し、この地を訪れる方にとってより良いまちづくりをめざした協議・提案を継続的に行ってきました。この南極の石は、加賀のまちの歴史をより多くの方に知っていただけるよう、加賀のまちづくりの一環として、様々な方のご協力を得て、ここに展示していただきました。


微軫灯籠



特に説明板などはなかった。








◆王子新道の碑


板橋宿は江戸時代中山道の宿駅として栄えたが、明治初頭に宿駅制度が見直され衰退の兆しが見えてきた。明治十七年十二月には300余軒が焼失すると言う大惨事見舞われこれに加えて翌十八年三月には日本鉄道の板橋駅が宿駅から離れた位置に開設されるに及び板橋宿は更に荒廃の一途を辿るに至った。
 花井源兵衛翁はかねてからこの窮地を脱し宿駅の活性化をはかろうと、工業地帯として発展しつつあつた王子と当地域とを結ぶ新道の建設に心血を注ぎ終始努力を重ねた。有志による2800円の寄付金を基に東京府が事業を継ぎ総額5000円を費やし、多くの困難を乗り越え1380mの新道は発意以来ついに6年余りの歳月を経て明治21年2月に完成をみた。 この道路はいまもなお板橋、王子を結ぶ要路としてその使命を果たしている。 開通100年に当たり先人の偉業をたたえ、ここに記念の標を建立する。









◆東板橋体育館

工事中だね。








◆加賀西公園

こちらも工事中。
上記、東板橋体育館すぐ隣にあった公園。


招魂之碑



 明治35年7月24日板橋火薬製作所火災起り各員之が消火に勉む偶々爆然たる猛火は勢迅雷の如く襲い来り陸軍技手花土丈七 職工今井吉次郎 辺見忠一 常盤勝次郎 金子徳次郎 田中信太郎 高木文次郎 石原吉五郎 渡辺誠次郎 新井久太郎の諸君を包み遂に非命に斃れしむ誠に悲惨の極と云うべし然と雖も死生固より命あり諸君の死を以て其任を謁し以て災害を一局に制し巨方の財を花神の厄より免れしめんもの其功績亦偉大にして以て瞑するに足るべし 茲に其一周忌に際し義金を拠出し碑を立て其霊を弔し其魂を慰むると而云。


圧磨機圧輪記念碑



 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(1865)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するため欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門(さわたろうざえもん)が、幕命をうけてベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーバル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜などの図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。
 慶応三年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治五年(1872)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治四年七月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は、「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっていたためでした。同年十二月に当邸の一部は造兵司属地となり、火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩士で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎(さの かなえ)が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。
 明治九年八月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和し、飾(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車) の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀二丁目5番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所」と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所 (通称二造 ) となりました。
 明治二十七年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同三十九年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。
 大正十一年(1922)三月、国内外の軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和六十年(一九八五)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には区登録記念物(平成七年度からは指定記念物) となりました。









板谷公園








続く。