2021/03/10 新板橋散歩 03 加賀公園

こちらの公園、情報量が多いので1ページにした。



公園の地図。
だいぶ薄くなってしまっているね。









◆工科学校板橋分校跡の碑

「花匂ふ桜ヶ丘 永遠の平和を祈る」


調べてみたら、砲兵工科学校分校のようだね。

『東京兵器補給廠(とうきょうへいきほきゅうしょう)、TODティーオーディー、英語: Tokyo Ordnance Depot)とは、東京都北部の、第二次世界大戦後にアメリカ軍によって接収された旧軍用地。 』
TODは東京都北部(北区・板橋区)の板橋・十条・王子・赤羽近辺のアメリカ軍によって接収された旧軍用地である。 東京兵器補給廠地区及び東京造兵廠地区、また各地区はさらに複数の地区に分かれる。東京兵器補給廠地区は1958年12月23日(陸上自衛隊十条駐屯地となる)、東京造兵廠地区は1971年10月15日に日本に返還された[1]。これらの地区はサンフランシスコ平和条約(1951年4月28日締結・1952年4月28日発効)により連合国軍は条約の効力発生後90日以内に撤退するよう定められていたが、接収地については発効の90日後にあたる外務省告示第33号及び第34号(1952年7月26日)によってその扱いが公開され、TOD地区は無期限使用施設とされた[1]。しかし1960年代末頃より始まった東京近郊の都市化の拡大、日本社会党日本共産党推薦の美濃部亮吉東京都知事就任及びベトナム戦争に対する反戦運動の激化から米軍施設の集約移転を行うことについて日米双方で合意し、その結果TODの未返還地区についても返還されることとなった。』
CIC - 戦前の砲兵工科学校分校の後、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所。返還後は板橋区立板橋第五中学校。現在の板橋区板橋4丁目(接収当時は板橋町五丁目)』
東京兵器補給廠 - Wikipedia









◆加賀前田家下屋敷



 江戸時代に成立した参勤交代 制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集まり、その家族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。そして、各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜されました。
 延宝八年(1680)の段階で、加賀藩前田家 は本郷邸(現:東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸を中屋敷(現:本駒込六丁目周辺)に、板橋宿 に面する平尾邸(現:加賀一・ニ丁目、板橋三・四丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用されました。
 下屋敷の平尾邸は、約ニ一万八千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開していました。その規模は本国金沢にある有名な大名庭園兼六園の約七倍の広さがあります。
 平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪れ、時には鷹狩や花火などが行われました。また、幕末には園遊会も催され、その席に招かれた松平容保 をはじめとする会津藩の人びとは、邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現しています。
 なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用されました。また、家族や家臣による送迎の場にもなっていました。
 邸内には与力を筆頭に五〇人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していました。彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。
 幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内オランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)となります。
 なお、現在、平尾邸の面影は、わずかにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。



 板橋区は、平成二十年(2008)七月九日の金沢市との友好交流都市協定締結を記念し、加賀藩江戸下屋敷の築山にあたる加賀公園に、この記念碑を設置しました。
 モデルとしたのは、金沢のシンボルともなっている尾山神社神門第三層のステンドグラスです。
 
   尾山神社  神門
 尾山神社は、加賀藩前田利家公並びに、その夫人お松の方を奉斎する神社で、二代藩主前田利長公が、慶長四年(1599)12月に金沢城の鬼門にあたる卯辰山麓に、利家公の霊を祀る卯辰八幡社を建立したのが始まりとされています。その後、金沢市の中心部にあたる現在地(石川県金沢市尾山町11番1号)の旧金谷御殿跡に、明治六年(1873)社殿が新設され、神霊を遷座し社名も尾山神社と改められました。
 国の重要文化財として指定されている尾山神社の神門は、社殿造営後の明治八年(1975)に建立されました。和漢洋の三様式を混用した異色の門として早くから全国に知られ、兼六園と共に金沢のシンボルともなっています。オランダ人ホルトマンの設計との説もありますが、棟札によると、建築総管は藤田貴知であり、工匠長は四面五色のギヤマン張り(ステンドグラス)で、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する帆船の目標とされたものです。なお、第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものと言われています。









◆電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃包製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園野口研究所付近)や本部(現・東板橋体育館付近)、原料倉庫(現・金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほどんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。
 なお、板橋火薬製造所は昭和15年(1940)に東京陸軍第二造兵廠(二造)に改組されています。
 また、この軌道は幅が750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車は、その車体の形状から「だるま電軍」とも、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。


説明板から1


説明板から2









◆陸軍板橋火薬製造所跡

公式twitter
板橋区史跡公園(仮称) (@ita_shisekikoen) | Twitter













◆弾道検査管(爆速測定管)の標的



 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内がらのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場滞には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=二造)内におがれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残浅されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾対の速度などを測定。観測する装置であり、戦前の二造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵(したがう)が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく軍工場時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。


調べると野口研究所は近所で現存していた。
公益財団法人 野口研究所


『野口 遵(のぐち したがう、したごう、通称:じゅん、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成積水化学工業積水ハウス信越化学工業の実質的な創業者でもある。
朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州海南島にまで進出した。森矗昶、鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた。 』
野口遵 - Wikipedia








築山から

築山から東京家政大学と愛誠病院が見えた。








続く。