2021/03/14 岩淵散歩 04 地蔵尊/新志茂橋/荒川治水資料館/水神社/取水塔/新荒川大橋/旧岩淵水門

新河岸川沿いを東へ進み、新志茂橋を渡って向かい岸にある岩淵水門などを巡る。




地蔵尊



この地蔵は昔水難事故が多く供養のため地元有志により建てられました。









◆新志茂橋

下は新河岸川












◆荒川治水資料館



こちら以前訪れたことがある。
荒川治水資料館 の検索結果 - ovanの社会科見学


京成押上線旧荒川橋梁基礎杭

 京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島,四ツ木間2224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25 橋脚の上に鋼板桁 54 連を架設し、向島四ツ木方面に向かって、線路の盛士をしたものでした。
 この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和 30年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防高上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため50年代から掛け替え計画が策定されていましたが、平成3年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成11年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。


『1991年(平成3年)1月5日 - 旧荒川橋梁にタンカーが衝突し、上下線ともレールが折損するほどの事故が発生。押上線が数日間運休となる。』
八広駅 - Wikipedia


荒川放水路完成記念碑

この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。
荒川下流改修事務所主任技師(現、、工事事務所長) であった青山 士(あきら) および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。
台座は富士川の転石を、 銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。
巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。


船堀閘門頭頂部



 荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川、新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、 沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、 小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門、小松川閘門を、左岸側に新川水門、船堀開門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀開門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。


日光御成道散歩

 日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成道と呼ばれた岩槻街道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。

荒川と岩淵水門
荒川はその名の通通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治43年(1910)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところでニ丈七尺(約8m)に達したと伝えられていますこれを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川枚水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正13年(1924)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。










◆水神社










◆取水塔










新荒川大橋

右方向が埼玉県川口市









◆旧岩淵水門


荒川の洪水記録

荒川水位の観測を始めた昭和2年から令和元年までの92年間における各年最高水位を大きいものから並べると次のとおりです。
過去92年間上位 7 例
第1位 AP8.60m 昭和 22 年9月16日(1947 年) カスリーン台風
第2位 AP8.27m 昭和16年7月23日(1941年) 台風
第3位 AP7.48m 昭和 33 年8月29日 (1958年) 狩野川台風
第4位 AP7.30m 昭和 3年8月 1日(1958年) 台風
第5位 AP7.17m 令和 元年10月13日(2019 年) 令和元年東日本台風
第6位 AP6.48m 昭和13 年9月21日(1838年) 台風
第7位 AP6.30m 平成11年8月15日(1999 年) 熱帯低気圧豪雨
観測所名:岩淵水門(上)水位観測所
観測期間:昭和2年(1927年)~令和元年(2019 年)
※AP とは、Arakawa Peil の略で、荒川水系における水準を表す単位です。中央区新川にある「霊岸島水位観測所」で AP士0 が定められ、現在全国の高さの基準であるTP(東京湾中等水位=海抜)は AP+1.1344と定められました。


旧岩淵水門のあらまし

昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治 44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約 22km の区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和 50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。

近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。
このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」 「北区景観百選」に認定されています。












続く。