2021/03/14 岩淵散歩 05 攝政宮殿下御野立之跡/中之島(水門公園)/新岩淵水門/芝川水門/志茂ゆりの木公園/志茂熊野神社/テルメ末広

岩淵水門周辺を巡った後はまた新河岸川の反対岸へ戻る。
大体この辺りで新河岸川が墨田川へ合流。
東に向かっていた川が南へ向きを変える。




◆攝政宮殿下御野立之跡

大正13年10月25日 攝政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察されたとのこと。
旧岩淵水門すぐ近くにこの碑はあった。









中之島(水門公園)


月を射る



月を射る
青野 正
材質 リバーテン鋼
平成8年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品

〈受賞者の言葉〉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。
私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を、想像してみました。満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。


草刈りの碑

由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので、有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから、草刈奨励の為め有志相図り幾多の曲折を経て、漸く男女青年団農学校壮年団と四組に分ち、全国に亘って町村大会郡大会都道府県大会と選手を選抜し、最後に全日本草刈選手権大会を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。鎌を競う選手四万余名、熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。大東亜戦のためやむなく中止したが、草刈魂を永達に伝ふるため農業国体其他篤志家の寄付を仰ぎ、茲に草刈の碑を建立した。蓋し農は国の大本草刈、堆肥は土を作る農業の根本だからである。










◆新岩淵水門




こちらは以前見学したことがある。
このときは機械室の中まで入った。
なつかしい。
2016/02/27 part3 荒川水門探訪ー水門施設見学と荒川の歴史ー - ovanの社会科見学









◆芝川水門

岩淵水門から少し遠いところに見えた水門。
調べると芝川水門だった。









◆志茂ゆりの木公園



志茂小学校記念碑

「すこやかに 明るく 直く」


由来

 志茂小学校は昭和三十年六月から の第二岩淵小学校の分校時代を経て、昭和三十三年四月に志茂小学校とLて開校しまLた。以来四十三年にわたり卒業生を輩出してきましたが、平成十四年四月に第二岩淵小学校と対等統合し、志茂五丁目の地域は岩淵小学校と統合しました。
 平成十五年四月には、第二岩淵小学校と志茂小学校の統合をしたことで、名称を北区立なでしこ小学校としてスタートしました。これを機に、志茂小学校同窓会もなでしこ小学校同窓会に合流することになりました。
 この度、志茂小学校の良さ伝統と校風を今後とも伝えていくため、校歌にも歌われ、校訓となり、いつまでも同窓生の心の中に生さ続けている「すこやかに、明るく、直く」の石碑を統合の記念碑として、改めて残すことになりました。この石碑の言葉は、今は亡さ文学博士 佐々木信綱先生が作詞された校歌に歌われています。先生は芸術院会員、第一回文化勲章を受賞された歌壇の大御所でした。
 昭和三十四年、当時の校長,PTA役員が来宮のお宅に先生を訪問し、校歌の作詞をお願いしまLた。先生は若き日に、赤羽の郷に遊び荒川を読んだ句のあることを話され、それをもとに作詞されました。そして、作曲は芸術院会員 信時潔先生でなければと、ご自身で依頼されたもので大変格調高い校歌となりました。
 昭和四十七年校舎完成を祝って、PTA顧問一同が、その中の言葉を志茂小学校の象徴として長く記念するために石碑として建立しました。
 今まで、この石碑は志茂小学校の同窓生、保護者、地域の皆樣方に親しまれてきましたが、今後とも、統合の記念碑として皆樣方に親しまれ、 地域の子どもたちの成長を見守ってくれるでしょう。


先客










◆志茂熊野神社



御祭神
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
伊邪那美神(いざなみのかみ)
事解之男神(ことさかのおのかみ)

御神德
氏子繁栄 学業成就 家運隆盛 交通安全 厄除開運

由緒
当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺の鐘銘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨紀州奉勤請熊野三社権現為郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)8月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。
毎年2月7日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として、昭和43年に改築竣工したものです。

末社
阿夫利神社 御祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
浅間神社  御祭神 木花之佐久夜毘賣神(このはなのさくやびめのかみ)
大六天神社 御祭神 於母陀流神 (おもだるのかみ)
十二社神社 御祭神 速玉之男神(はやたまのおのかみ)

御社殿右の末社には、四社が和られています。この社殿は旧熊野神社の御本殿です。これら四社は「講」として、村人が本来御本社に参詣するところ、当時の交通手段では多くの方が出向く事は容易ではなく、有志の方が御本社より勧請し鎮守と一体にして氏子の信仰を仰いで今日まできています。
なかでも阿夫利神社祭(五月七日)は五色の紙で御幣を切る事数十本これを奉納し、式典後参拝の方に家内安全繁栄を願い差し上げて居ります。



梛野原稲荷神社(なぎのはら)
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまの か み)
御神德 五穀豊穰 災難除 商売盛

荒川放水路は明治・大正時代まで、東京都・埼玉県一帯が大雨により度々洪水に見舞われ、住民は毎年悲惨な思いをして来た過程で建設されました。
梛木野原とは荒川の対岸にあって、下村の飛地とLて放水路の出来るまで水田、畑として作物を生産していまLた。 その地に当社は当時まで鎮座し、五穀豊穰と家內繁栄を願い村人の信仰を仰いでいましたが、放水路の建設により現在の地に移築されました。

志茂 水神宮
御祭神 水波の売神(みずはのめ のかみ)
御神德 水の恵み 水難予防 五穀豊穰

穀物の豊作と洪水災害除け、農村の水の恵みを祈願されてています。当社は後世まで水の有難さを求め、現在数少ない水神祭を引き継ぎ行って います。

御祭儀
熊野神社
例大祭  九月第一土曜日、日曜日
元旦祭  一月一日
白酒祭  二月七日
新年祭  二月二十一日
大祓   六月二十九日
七五三祭 十一月日曜日(特定日及び祝日)
新嘗祭  十一月二十九日
かまじめ 十二月二十二日及び二十三日
お焚き上げ十二月二十七日~三十一日
阿夫利神社祭   六月七日
梛野原稲荷神社祭 六月十三日
水神宮祭     六月二十五日


熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)

 熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(1312)八月、下村の西蓮寺住僧であった淳慶が紀州の熊野三社権現の分霊を招き入れて創建したと伝えられています。以来、同社は今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和四年(1804)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政五年(1822)の年紀がみられる阿夫利社や嘉永二年(1849)三月建立の富士講村上派の供養塔などがあります。
 毎年二月七日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月七日の年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に饗宴として催されていたものです。祭では墨で丸く描いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜きます。かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、籤に当たった者が持ち帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が持ち回りで、荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。
 関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるオビシャ行事ですが、都内で伝承されている事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗慣習を理解する上で大変貴重な文化財です。


境内社四社



阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)
 今では阿夫利神社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社の本殿として使われていたものです。熊野神社は、正和元年(1312)に和歌山の熊野からこの地に熊野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和四十三年(1968)に熊野神社の社殿が建て替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在、この社殿には阿夫利神社の他、浅間神社・大六天神社・十二社神社が併せて祀られています。
 社殿の建築材には年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)など、部材の各所 の彫刻には江戶時代後期の様式の特徴もみられます。高欄の擬宝珠金物に「文政五年壬午歲五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築であることがわかります。
 阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戶の子育地蔵の裏手(現志茂三・四丁目の境)に祀られていたものが、昭和に入り熊野神社境內に移されたものです。かってこの辺りでは、 毎年五月七日に旧下村の若い衆が集まって万垢離(まんごり)あるいは祈祷垢離(きとごり)などと呼ばれる行事を執行Lていました。数百本もの御幣(ごへい)を挿した竹柱(ボンデンまたはボンゼンと呼ばれました)を作り、これを担いで「阿夫利権現六根清浄」と唱元ながら荒川で水垢離した後、村内を練り步き、氏子に水挿してある御幣を配りました。


稲荷神社



楽殿


神木椰の木



梛の木 は遠く中国 の海南島 や台湾 等に自生するが、太古黒潮ラインに乗り本邦南紀四国九州 等の温暖な地方に定着したイチヰ科 の雌雄異株の常緑の高木です。梛の木は、伊豆半島 が北限であると伝えられ、当神社の梛の故郷伊豆山神 には「此の木は他国に稀なり」と記して有り東京の北辺 当神社で育つとは、と感激して居ります
   (地球温暖化 の為か)

梛の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良 の春日神社 には平安 期900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1400余年の昔 山岳信仰 の道開きとも仰がれる役の行者 (小角 )が

 神木梛の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は 千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず
と歌われた誌が有ります

鎌倉 の尼将軍 と名をはせた北条政子 が若き日に伊豆山 に配流されていた源頼朝 と梛の木の下で愛を誓って結ばれたロマン が良縁 が結ばれる縁結び の神木とされます後に 1192年源頼朝鎌倉に幕府 を開く他にも梛の木の文献が数多くありますが 当熊野神社の本宮紀州熊野神社那智の大社 には平重盛 が植えたといわれる樹齢 1000年の梛の巨木 有り千古の昔より信仰 熱く当神社にも「縁結び」の神々が坐します
梛の木との関わり深く神木として大切に生育したいと思います


水神社


参道・鳥居









◆テルメ末広

銭湯♪








続く。