2021/03/16 王子散歩 01 王子駅/王子駅前歩道橋/王子駅前公園/お札と切手の博物館/柳田公園/装束稲荷神社/王子授産場/平井保昌の杉と和泉式部の梅

24時間勤務アケで、JR王子駅から東京メトロ南北線王子神谷駅まで散歩。
その後は細君とJR御茶ノ水駅からJR水道橋駅までお散歩。



JR王子駅からあちこち巡りながら北へ進む。



王子駅

スタートのJR王子駅





都電荒川線王子電停


近くにあった地図








王子駅前歩道橋

下は明治通り











王子駅前公園



古くは江戸時代から庶民に愛された王子。。。。
今も随所に江戸文化の面影が残る界隈。明治以降の近代製紙文化発祥のこの地に、人が出会い、憩う、明るく開放的な公園。

風のモニュメント(エコノキ・エノキ)
 この辺りがまだ一面の田畑でとても寂しい場所だった頃、風景画の名手安藤広重によって装束榎(しょうぞくえのき)に集まる狐たちの幻想的な浮世給が描かれました。
 このモニュメントは、由緒ある榎の形を根幹とし、そこに発展する街の未来的なイメージを重ね合わせています。
 風車は、自然エネルギーを利用した夜開の演出や効果的な情報提供を可能にするだけでなく、環境問題やエネルギー問題に対する人々の関心を高める役割を果たします。
 輝きと透明感に満ちた白銀の塔に風が吹き、小きな風車を軽やかに回すとき、モニュメント全体に生き生きとした表情が生まれます。
 王子の街角に爽やかな風を呼ぶシンボルモニュメントです。
王子駅前公園は、当時の印刷局王子工場が千川上水から分水して設置した貯水池の跡地に、昭和30年開園した公園です。









◆お札と切手の博物館

以前訪れたことがある。
hatenaで日記を書き始める前だね。
今度mixiで探してみます・・・。








◆柳田公園



柳田尋常小学校跡碑










◆装束稲荷神社



王子の狐火と装束榎
かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。
毎年大晦日の夜、関東各地から集まってきた狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。
江戸の人々は、商売繁昌の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、左の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。
昭和4年(1929)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後にこの榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(1993)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷神社までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。



今から約千年の昔この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷神社の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。
この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの村に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷神社にお参りするのが例になっていて当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重がその装束稲荷を浮世絵として残しています。
その後明治中期に榎の大木は枯れ土地発展に伴いその佐置も現在の王子二丁目停留所となり社はその東部に移されました。
昭和二十年四月十三日の大空襲の際猛烈な勢いで東南より延焼して来た火災をここで完全に食い止めて西北一帯の住民を火難から救った事は有名な事実です。
この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿を造営せんものご地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て現在の社伝を見え至りました。
この装束稲荷は商売繁昌の守護神のみならず信心篤き者は衣装に不自由することなく、又火防の神としても前に述べた通りで信者の尊栄を高めています。









◆王子授産場

一般就労困難な高齢者の方が働く施設とあった。
授産場とは|東京都北区








◆平井保昌の杉と和泉式部の梅

東十条南児童遊園内にあった。



和泉式部
 あらざ覧 この世のほかの 思い出に
      いまひとたびの 逢ふこともがな

平井(藤原)保昌
 かたがたの 親の親どち 祝ふめり
      子この子の千代を 思こそやれ



 今から千年前 源頼光等四天王と共に当地で昼食を取ろうとした保昌は杉の小枝を著の代わりに使用し、「源氏が末長く栄えるなら枝葉を付けて繁茂せよ」
と念じて地に挿したところ、のちに王子の二本杉と言われる大木となりました。
明治43年の台風で倒れてしまいましたが、その杉で作った「扇額」は飛鳥山博物館に保管されています。 保昌は後に出世して丹後の守となり、恋多き才女
和泉式部と結ばれて丹後へ赴任しております。式部がこよなく梅を愛で、御所紫辰殿の中庭の紅梅を所望している事を知った保昌がその紅梅を献じ、愛を射
止めた逸話は有名です。 又謡曲「東北」 に出てくる軒端の梅にも有るように式部は生涯梅を愛し続けました。

 かたがたの 親の親どち 祝ふめり
     子この子の千代を 思こそやれ     平井 (藤原) 保昌 (後拾遺和歌集448番)

 あらざ覧 この世のほかの 思い出に
    いまひとたびの 逢ふこともがな     和泉式部(後拾遺和歌集763番)

二人の歌を ここに掲載し千年前の二人のロマンに夢をはせこの地で少憩した緑と歴史の深さを後世に繋げたく思い「開運夢の杉著」 を製作し商店街結成
五十周年を機に植樹して記念にしたいと思います。







続く。