2021/03/30 北区豊島散歩 05 関電工王子ビル/紀州神社/豊島七丁目児童遊園/清光寺/庚申通り商店街/豊島馬場遺跡公園/宝泉湯

紀州通りを西へ進み、途中から細い路地へ入りブラブラしながら西へ進む。



◆関電工王子ビル

昔お世話になった会社。
僕が行っていたのは府中だったけど・・・・。







紀州神社


水神社



社?

社でいいんだと思うが・・・・。
何が祀られているかはわからなかった。


北区立豊川小学校発祥の地


鳥居1


鳥居2


サクラ







◆豊島七丁目児童遊園







◆清光(せいこう)寺



 清光寺は医王山と号し、新義真言宗に属する寺院です。
 江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」は、この寺は豊島清光の開基で、寺号もその名によること、小田原衆所領役帳(永禄二年1559年)に島津彦四郎知行14貫文豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王行基の作で豊島の七仏の一つであったと推定されること、境内に正安三年(1301)、文治二年(1186)、文明元年(1469)、永福五年(不明・私年号)の四基の古碑があることを伝えています。
 また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和四年1618)によれば、山号は常康山、保元二年(1157)豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、寛正年中(1460~1465)応仁年中(1467~1468)山賊悪徒により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明九年(1477)豊島泰経と太田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正十五年(1546)府河城主豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄六年(1563)上杉等の残党が府河城を攻めた祭豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。
 この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保二年(1742)の作で、願主は祐真、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐真は当時清光寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったろうということです。豊島清光は、その子葛西清重とともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
またこの地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本紀」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。 なお、この寺は、豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。


山門


参道入口


先客







◆庚申通り商店街

商店街♪








◆豊島馬場遺跡公園




豊島馬場遺跡説明板

豊島馬場遺跡は、古墳時代はじまりの頃(およそ1700年前)に隅田川(旧荒川)沿いに人々が残した遺跡です。平成3年から約6年間におよぶ発掘調査で、壺(つぼ)や甕(かめ)などのおびただしい数の土器や沓(くつ)、鍬(くわ)、舟のミニチュアなどの木製品が発見されました。なかでも日本最古のガラス小玉鋳型は、ガラス製品の製作技術などを考えるうえで貴重な出土品です。こうした遺物を使い、豊穣や繁栄などを祈る祭りが行われたとみられます。


サクラ







◆宝泉湯

銭湯♪







続く。