京成立石駅南側エリアを中川に沿って北上
◆本奥戸橋
この地蔵尊は、貞享二年(1685年・江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったということです。昭和初期、本奥戸橋架設の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、掛替え工事の為現在地に再度移転しました。
地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておまいりしています。
となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。建造は安政二年(1855年、江戸大地震の年)です。
道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦五年(1755年)旅人たちの役にたてようと建造したものです。
「・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し場道・・・と刻したり。・・・」永井荷風『断勝亭日乗』より
母の愛碑
人間の知・徳・体・の諸能力の調和的発展の基本は家庭及び万人就学の小学校での基礎陶治にあり、その方法は直観・自発活動・作業と学習の結合に基づく
ベスタロッチ
◆地蔵堂
近くに咲いていた花。
カキツバタ?
◆立石稲荷神社(立石様)
以前も来たことがある。
2017/04/16 京成立石散歩 02 立石諏訪神社/梅田稲荷神社/帝釈天道標/立石/熊野神社/奧戸橋 - ovanの社会科見学
はてなで日記を書く前にも来ている。
立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。石材は千葉県鋸山(のこぎりやま)周辺の海岸部で採集された、いわゆる房州石(ぼうしゅういし)で、最大長約60cm、最大幅約24cm、高さ約4cmが地上部に露出しています。もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。
一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。
江戸時代後期以降、立石は寒さで欠け、暖かくなると元に戻る「活蘇石(かっそせき)」として、『江戸名所図会』などの地誌類に多く記載されるようになります。立石が玉石垣で 囲われるようになったのは文化年間(1804~1818年)以降で、その周囲には柳や小竹が繁茂する、社義(しゃそう)を呈していました。
『雲根志』には、立石が高さ二尺(約60.6cm)程度であったとされていますが、御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、愛石家のコレクションとして人々に削り取られていきました。また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在の高さに至っています。
なお、大正十二年には人類学者の鳥居龍蔵(とりいりょうぞう)がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたものと結論づけています。その後も中谷治宇ニ郎(なかやじうじろう)、大場磐雄(おおばいわお)ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。
東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰をうかがい知ることができ、日本先史時代の研究史上重要な遺跡です。
立石児童遊園
この公園内に立石様が祀られている。
◆立石3号踏切
京成押上線。
続く。