2021/04/22 千住散歩 03 東武線高架/清亮寺/東武線高架/日ノ出神社/浜街道架道橋/荒川鉄橋/荒川千住新橋緑地

今度は東武伊勢崎線の高架をくぐる。
東武線の高架は名前がついてないんだね・・・。
日ノ出神社の後はまた東武線、JR常磐線の高架をくぐって線路西側へ。



東武線高架

こちらはくぐらず手前を左折。
電車が走っていたので撮った。








◆清亮寺(せいりょうじ)



 日蓮宗、久榮山(きょうえいざん)清亮寺と号す。元和五年(1619)身延山久遠寺末として、運寮院日表上人により、水戸街道入口のこの地に創建された。かつて水戸街道に面して古松が茂り、水戶藩主の德川光圀公が槍を立てかけたという「槍掛けの松」が有名であった。
 本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮說法像を中心に、左に釈迦如来、右に多宝如来、四菩薩、四天王、文殊・普賢両菩薩、不動・愛染両明王の十五躯の木像で構成されている
 本堂は天保四年1833)再建の総欅(けやき)造りで、随所に江戸期の建築様式を残しているすぐれた建造物である。
 墓域には、庚申塔一基(足立区登録有形民俗文化財)や、明治初頭に日本医学発展のために腑分(ふわけ) (解剖)された囚人十一名を供養した解剖人塚(足立区登録有形文化財)がある。また、明治五年(1872)に千住で生まれ、京都帝国大学教授を務めた著名な歴史学者内田銀蔵博士の墓もある。
 昭和六年再建の山門(薬医門)に揭げる扁額「久榮山」(足立区登録有形文化財) の書は、中国南北朝時代に発展した六朝風の書体を得意とした書家の中村不折(ふせつ)によるもので、不折は洋画家とLても知られ、夏目漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を描いた人物でもある。


『内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1月25日) - 1919年(大正8年)7月22日は、日本の歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。 』
内田銀蔵 - Wikipedia


槍掛けの松

 清亮寺の門前を通っている幅6mの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道 (水戸海道)です。
 江戸時代初期の元和五年(1619年)に開山した清亮寺は、今の千住四丁目で日光街道 (日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向う側にまで枝が達する大きな松の木がありました。
 水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、櫓持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。しかし、衝道一杯に張り出した松のため、一度は徳を倒さなければ通れません。
 そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、 見事な技振りをご覧になった、後の水戸黄門水戸藩主の徳川光圀公は『名松を切るのは惜しい。 ではここで、この松に楠を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをしました。
 以来、この松は「橋掛けの松」 と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。
 写頁は、水戸黄門の時代から守られてきた「槍掛けの松」の見事な姿で、今の足立たちばな幼稚園西側の道路から、関東大震災以前に撮影されたものです。
 大きな松の根元は幼稚園内の南西寄りにあり、屈曲した先端は添え木に支えられ、水戸街道の向う側にまで勢いよく枝を張り葉を茂らせています。しかし、樹齢三百五十年を数えた名松は、惜しくも昭和二十年ごろに枯れてしまいました。
 南無妙法蓮華経と髭題目が刻まれた樟石や、清亮寺と刻した寺号石は、正面が西向きに置かれており、今の山門前とは向き、場所が共に異なっています。
 後方左手は清亮寺内の家ですが、右側の二軒は、間に水戸街道を挟んだ道路の向う側の家ですので、この写真は、水戸黄門一行が通行した時代を思ぶことも出来る貴重な資料といえます


山門








東武線高架

こちらをくぐって線路の東側へ。








◆日ノ出神社



 当社は稲荷大明神なる五穀をつかさどる倉稲魂神(うかのみたまのかみ)(素盞雄尊(すさのおのみこと)の御子)をお祀りしてあります。
 昔からこの辺一帯を弥五郎新田と称されていたが、明治四十四年、荒川放水路の開設工事が起工されるにあたり、その計画線内に在って、川底に水没する筈の稲荷神社を、時の弥五郎新田戸長、大塚孫左氏が、村民の総意によって五反野の稲荷神社(足立区足立3丁目、西ノ宮稲荷神社)に合祀し、後にこの分れの神社として現在の場所(日ノ出町)へ祀られたものであります。
 戦前迄は五反野稲荷の支社として祭事が行われてきたが、戦時は時の流れから神事など一時すたれていたものを昭和28年に至り、総代新井竜祐氏等が相はかり、氏子一同の寄付金によって社殿の改修を行い、神輿も新調され、祭礼が行われました。
 これを機に、五反野の親宮から分離独立致し、爾来元宮としての日ノ出神社と称する事になった次第であります。









浜街道架道橋

こちらをくぐって線路西側へ









◆荒川鉄橋

手前から東京メトロ千代田線、JR常磐線つくばエクスプレス








◆荒川千住新橋緑地



◆緊急用河川敷道路
緊急用河川敷道路は、震災時の緊急用復旧活動や緊急用物資の輸送に利用できるように荒川の両岸の河川敷に設けられており、緊急用船着場等と接続しています。 平成14(2002) 年に荒川河口から笹目橋までの全線が完成し、河口から埼玉県内まで、荒川の緊急用河川敷道路のみで物資等を輸送することができるようになりました。この緊急用河川敷道路は、 普段はサイクリングやジョギングを楽しめるコースとして利用されています。

七福神
千住には、七福神を祀った神社やお寺があり、「千寿七福神」巡りが楽しめます。ゆっくり歩いて約1時間半の手軽なコースです。 布袋尊は長円寺、大
黒天は本氷川神社の別棟、 昆沙門天は勝専(しょうせん)寺、福禄寿は不動院。千住神社の恵比寿天は、台座が回転式になった珍しいもので、回しながら願をかけると、 御利益があるといわれます。源長寺(げんちょうじ)は寿老人、氷川神社の弁財天は、七福神の中で唯一の女神です。

②宿場町通り(横山家、吉田家絵馬・名倉医院)
今の千住1~5丁目周辺は、 かつての江戸四宿の1つ、千住宿が置かれた所です。宿場町通りには本陣や旅龍屋などが軒を連ね賑わっていました。 当時の面影
を伝える建物に、 江戸時代から続く商家の横山家住宅があります。 その近くにある吉田家は、付木(つきき)に絵馬を描く珍しい手法で「千住の絵馬屋」 として有名でした。今でも絵馬が保存されており当時の様子を知る貴重な資料となっています。 他に古風な長屋門を構えた旧名倉医院のたたずまいも宿場町の名残を今にとどめています。

③小菅の渡し
このあたりはかつて 「弥五郎新田」と呼ばれた地区でしたが、荒川川放水路の完成によって、川の北側と南側に分断されてしまいました。 大正13(1924)年に千住新橋が開通したものの、橋から離れた所では対岸まで行くにはかなり遠回りをしなければなりませんでした。 そこで、 現在の日ノ出町と小菅を結ぶところに
小菅の渡しがもうけられました。当時の運賃は1人2銭、 自転車は3銭だったそうです。当時の子どもたちの通学や通勤に利用され、昭和15(1940)年まで運行されていました。









続く。