2021/04/22 千住散歩 06 タカラ湯/千住柳町児童遊園/元宿さくら公園/帝京科学大学3号館/元宿神社/桜土手/帝京科学大学2号館/帝京科学大学

どんどん西へ進んで墨田川手前までたどり着く。



◆タカラ湯

銭湯♪









千住柳町児童遊園


藤棚








◆元宿さくら公園








帝京科学大学千住キャンパス3号館








◆元宿神社



 この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
 天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
 荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れねばならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。


大師堂


千住七福神 寿老神


感旧碑



 我が祖先、因幡貞宗は、長亭元年、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男 蔵人は大永六年、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子 左ヱ門尉信義は、天正元年(1573)、この地を開墾し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠を、九月東北に稲荷神祠を建てました。
 この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年、そのうち二十戸が今の千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
 天明七年(1787)の飢離の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年~四十三年の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田園もほとんどが被害にあい荒廃しましたがそれでも村から離れず死守して来ました。
 大正元年八月、内務省が荒川改修工工事を行うことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。
 我が一族が、この地に移り住んで四百余年、私は貞宗の遠い子孫になりますので、今この地を去るにあたり愛慕の情を禁じ得ず、碑を八幡神社に建てその概要を記して末代に伝えたいと思います


石塔等


楽殿


鳥居


参道入口








◆桜土手



 現在、干住地域の南部を走る都道補助119号線は、従来、元和二年(1616)に石出掃部助吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が築いた荒川水除堤 (通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。
 大正十二年(1923)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した昭和六年(1923) 一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。
 旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。


里帰り桜


きのこ

食べられるかな?(w








帝京科学大学千住キャンパス2号館








帝京科学大学

こちらが本館だろうか。
街にこんな風に分散していて、移動が大変そうだね・・・・。









続く。