2021/05/05 千住仲町散歩 02 北千住宿場町商店街/千住街の駅/千住ほんちょう公園/吉田家・横山家/旧水戸佐倉道石標/千住氷川神社

4/22にジグザグに通ったため良くわからなかった千住ほんちょう商店街(旧日光街道)をまっすぐ歩いてみる



◆北千住宿場町商店街

商店街♪
日光街道











◆千住街の駅

観光案内所。
約100年前に建てられた、元魚屋の建物を活用しているとのこと!
http://adachikanko.net/spot/play/id-487









◆千住ほんちょう公園


日光通中千住宿史跡・旧跡案内図

だいぶ褪色しているね・・・。
アプリで補正したが、これが限界。


千住宿 高札場 由来



私たちの街、千住が宿場となって栄えたのは慶長2年(1597)人馬引継駅として以来のことだといわれています。
江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。
特に寛永2年(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約4百年を経て、今日に至っております。
このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。
これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいと思います。


時代を見つめる



作者名 小林照尚

wikiはなかったけれどHPがあった。
小林照尚ウェブサイト


手づくり郷土賞








◆吉田家・横山家

4/22に来たところ。
2021/04/22 千住散歩 04 安養院/千住本町住区センター/横山家住宅/千住絵馬屋・吉田家/ハッピーロード商店会/大黒湯/いろは通り - ovanの社会科見学



前に来た時に横山家の蔵を撮っていなかったので、今回撮った。








◆旧水戸佐倉道石標









◆千住氷川神社


猿田彦大神/稲荷神社/高正天満宮




高正天満宮(こうしょうてんまんぐう)縁起日



 水川神社内に合祀される高正天満宮の縁起を示す碑である。千住四丁目の名主高梨氏の系譜や、高正天满宮の由来について詳しく述べている。
 千住四丁目の名主高梨信平は地域の子供たちに読み書きなどを教えていた。縁故を頼って屋敷内に住むことになった正木昌房に、老齢の信平は子弟教育を託し、代々信奉していた菅原道真の像を讓った。正木氏はそれよりこの像を家神とLて祀り、子弟教育を家業とするようになった。
 昌房の孫、正木建はこの菅原道真像を個人で祀るより、氏神社内で祀ることを思い立ち、高梨氏と正木氏とに関わるこの神を、それぞれの一字をとって高正天满宮と号することにしたという。
 正木氏は、昌房以来、代々寺子屋「群雀堂(ぐんじゅくどう)」の経営にあたり、二代目塾主、大助(正木櫟蔭(まさきれきいん))の代には大いに発展し、来塾するものが每日百人ほどもいたという。
 元治元年(1864)に建立きれたこの碑は、三代目正木建の撰文に上るものであり、天満宮の由来はもとより、寺子屋開塾に至る経緯がうかがわれる貴重な資料である。
 平成二年(1990)一月、足立区登録有形文化財とした。


正木櫟蔭事績碑(まさきれきいんじせきひ)



 宝暦元年(1751)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂」の二代目塾主、正木大助の生涯についての碑である。
 父昌房が千住に移住し、地域の子供たちの教育を行うようになった由来を記している。その末子として宝暦十二年(1762)元旦に生まれた大助は幼い頃から学問に秀で、12歳にて塾主を継ぎ、母や姉の死や貧苦を乗り越えてますます勉学に力を入れ、これを慕って学ぶものが日に百人余りを越えていたということや、66歳で剃髪した後も、多くの人々の尊敬を受け清白とした生活を送っていた様子などが述べられている。
 大助は天保十二年(1841)十二月、80歳にして死去するが、死去間近には幕府代官中村八太夫が、その評判を聞いて見舞い、大助の死後、老妻は扶持米を支給され、息子建には銀5錠の褒章が与えられたことも記されている。
 この事績碑は、塾主3代目を継いだ息子正木建の撰文によるもので、嘉永5年(1852)に建立されたものである。寺子屋教育の様子を物語る貴重な資料である。












続く。