2021/05/05 千住仲町散歩 06 千住神社

情報量が多いので1ページにした。




こちらは一度富士塚だけ来たことがある。
http://ovanrei.hatenablog.com/entry/2019/07/01/220000



 およそ一千年前、この地は千崎(せんざき)という丘陵で、森林地带であったが、延長四年 (926)に稲荷の神が勧請され、千崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279)、氷川神社も勧請Lたので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ッ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915)に千住神社と改称した。
 祭神は、須佐之男命と字迦之御魂命の二神を祀り、明治七年に区内唯一の郷社に列せられた。 当氏子の厚い信仰と熱誠(ねっせい)により昭和三十三年(1958)九月、現在の神殿(権現造り・流れ作り・神明造りの三者混合)が完成した。
 千住神社では、元禄八年(1695)の御本社再建に際して掲示された開帳木札(かいちょうもくさつ)(足立区登録有形文化財)や、大正天皇ご即位と改元を記念して千住一丁目の有志が作らせた獅子頭(足立区登録有形民俗文化財)が保存されているほか、神田囃子睦会(かんだはやしむつみかい)(足立区登録無形民俗文化財)も活動している。
 境内には、千住神社富士塚(足立区登録有形民俗文化財)のほか、松尾芭蕉の句碑や、森鷗外の師佐籐元萇(さとうげんちょう)が撰文した「西森神社之碑」、大戦中の防空壕などもあり、千住の歴史を物語っている。



当神社は、千住に集落が形成された、延長四年(926)土地鎮護と五穀豊穣を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立した。永承六年(1051)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ツ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されている。
弘安二年(1279)に武蔵国一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社を創立した。この為にここを二ツ森と言っており、旧考録には、代々の将軍が鷹狩りを行ったという記事が随所に記録されている。
寛永年間に至って、千住が日光街道の第一宿となり、当神社は、その西方にある為に、西の森とも言われた。江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治五年十一月十八日、両社は村社と定められ、更に翌六年六月には、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と名を改めた。同年七月五日に、足立区内最高唯一の郷社と定められ、更に大正四年十二月十五日以来、千住神社と改称した。
 昭和二十年四月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、三十三年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された。









芭蕉の碑

ものいえば 唇寒し秋の風









◆神楽殿









◆千住富士



 七月一日のみ登拝可。
 江戸中期に富士信仰が盛んになり、「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、各地に富士塚がつくられました。
 宿場町として栄えた千住には、多くの富士講があり、活気あふれる土地柄もあり、当社にも富士塚がつくられ、富士信仰の文化が、脈々と受け継がれていました。










◆稲荷神社



 元々は稲の精霊を神格化された神で、名前の「字迦」は、「食(うけ)」と同じ意味で食物のことをさし、五穀・食物を司る神として尊ばれ、家内安全、商売繁昌、開運の御神徳は、多くの人々から崇敬を得ています。









◆願かけ恵比寿



願かけの方法
一、まず、恵比寿様を男性は左へ三回女性は右へ三回まわす。
二、神像(恵比寿様)の析願箇所を、願いを念じながら白いハンカチで三回なでる。
三、そのハンカチを持ち帰り、ご自宅で神像をなでた箇所と同じ箇所、ご自分の体をハンカチで念じてなでる。

ハンカチをお忘れの方は社務所にて初穂料二百円で頒布致しております。









天満宮



「天神さま」と呼ぱれ、学問や芸能上達の神として、古くより親しまれています。









◆火伏せ三社
八幡神社/恵比寿神社/三峯神社



 昭和六年一月建立。もともと夫婦銀杏の下にあったが、昭和二十年四月の東京大空襲で、千住宫元町のあらゆる建物が焼失した中で、木造としてたった一棟、奇跡的に焼け残ったのが、 この三社である。
 三社御祭神それぞれの御神徳とともに、火伏せの神、火防守護の神としての御神威もあり、崇敬されています。










◆経王稲荷社










狛犬



 江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたものであるが、その狛犬の姿が”子を抱える””子を護る”とても珍しい姿であります
 これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繁昌、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)のお恵みが、特に灼かであったことによることが理由の一つとされています。









防空壕



昭和二十年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。
簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。









◆史跡八幡太郎源義家陣営の地

説明は由緒のところに書いてあるね。








鳥居








続く。