2021/05/05 千住仲町散歩 08 やっちゃ場の郷土史家福島憲太郎/名人鯉の隠居 佐可和鯉隠/元やっちゃ場北詰の碑/源長寺/旧掃部堤/千住仲町公園/仲町氷川神社

日光街道を北上。
墨堤通りに入り東へ。
千住仲町公園から商店街(ミリオン通り商店街)に入り北上する。



◆やっちゃ場の郷土史家福島憲太郎

 やっちゃ場には千往葱を専門に扱う葱問屋三軒あり十一代目(※角)川崎屋の長男として生まれる。千住葱は高級葱として取引され三軒の問屋が早番、中春、遅番と輪番制を取りセリを行っていた。
 何頃かは不明てあるが郷土史の研究を始め特に江戸中期の俳諧師建部巣兆の俳画の研究が著名である。各地の絵馬の研究収集にも力を注いでいた。
 晩年にはやっちゃ場に関する各種資料の収集を精力的に行っていた。
 福嶋氏の資料がやっちゃ場の「しくみ」を知るうえで大変用立てさせていただいている。

※角 ←〇の中に角が入った字










◆名人鯉の隠居 佐可和鯉隠

「千住の酒合戦」文化十二年十月二十一日千住一丁目問屋場前の諸家飛脚宿中屋の隠居六右衛門「中六」が還暦祝いに酒合戦を催した。その勧進元は「中六」の吞友達の粋人鯉の隱居と言われた鲤隐(坂川利右衛門・頌酒堂 佐可和鲤隐・青物問屋坂川屋)が引受けた。鲤隠は千住の俳人建部巣兆の門下で絵を描き、酒井抱一と親交があった。千住に遊ぶ龟田鹏斎など文人墨客とも親交があり、江戸市中の文人らを来賓に招いている。その顏ぶれは鹏斎をはじめ、谷文晁、酒井抱一
市河寛斎など知名度の高い人達であった。竹塚村の(現竹の塚)出身の文人、竹塚束子も来賓に連なっている。
 鲤隱は陽田川を干住の大橋て渡った素盞雄神社に文政三年(1820年)に意田鹏斎書による松尾芭蕉句碑を建立している。どうして南千住の素盞雄神社なのかは不明てある。御存知の方はお知らせ下さい。










◆元やっちゃ場北詰の碑

現地では説明板などは見当たらなかった。



google mapマークの場所は上の写真の所辺り。
口コミの写真と建物が違うので、場所が違うか建て替えられてしまったかだね。









◆源長寺



 浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)により、同十五年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。
 本尊は、阿弥陀如来である。
 墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。
 また草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚、一啓斎路川句碑等がある。


多坂梅里先生追悼碑

 寺子屋の発祥は享保年中(1716~35)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。
 碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣(せいしん)であったが、享保年中千住駅に寓居L、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃
部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法主て全人的教育をし、た いへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。
 梅里先生は、天明九年(1789)九月二日没した。


寿老人


お稲荷様


石塔等

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山門









◆旧掃部堤

『『千住旧考録』によると石出掃部介の新田開発によって元和2年(1616年)に掃部堤が築かれ、万治元年(1658年)に隣接する掃部宿・河原町・橋戸町が開発された。その2年後には荒川対岸の豊島郡側の万治3年(1660年)に千住大橋南側の小塚原町・中村町が宿場に加えられた。』
千住宿 - Wikipedia










千住仲町公園



「墨田川関屋の里」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760~1849)は、冨獄三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不ニ」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨獄三十六景の題材なった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。









仲町氷川神社



 仲町永川神社は素委鸡尊(すさのおのみこと)を祭神とし、社伝によれば元和二年(1616)遷座と伝えられる。「新編武蔵風土記」に、江戸時代後期には千住二から丁目の鎮守社で、千住一丁目不動院が管理Lていたと記されている。この神社には、つぎのような文化財が伝元られている。
 関屋天满宮碑 関屋天满宮は、神社本殿左側に社殿がある境内社のひと一つである。「新編武蔵風土記」に「天神社 小名閱屋二アリシ社ヲ移セリ。故二鳥居二関屋天满宮ト扁ス。神体菅公ノ像ヲ安ス」とある。関屋から移転した時代は不明である。 文化四年(1807)建立のこの碑は、裏面に一啓斎路川(いちけいさいろせん)の門人たちが造立したことが記され、路川書の和歌が刻まれている。両側面には、月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれているが、作者は不明である。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(歷史资料)となった。
 金鋼装神輿 総高224.5cm、胴部幅63.5cm、基部幅116㎝の大型の神輿である。小壁に鳳凰、扉に神紋等を蒔绘で描き、要所を金銅金具で装飾し工芸的に優れている。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
 弁天像供養庚申塔 境内の岩の祠の中に安置される。元禄二年(1689) 重陽 (旧曆九月) 二十八日の日付を持ち、十名の造立者 の名が刻まれている。庚申塔には珍しく、弁財天を主尊とLて陽刻している。 その左右には雌雄の鶏、下部には三猿が表われている。 昭和五十八年十二月に区登錄有形民俗文化財となった。
 四神文鏡 (天保戌年在銘) 天保九年(1838)制作で、鏡背に青海波(せいかいは)に秋津 (蜻蛉(とんぼ)) の和風文様が鋳出(いだ)されている。付属する鏡立は、嘉永七年(1854=安政元年) に米穀問屋が寄進したことを記した墨書がある。昭和六十年十一月に区登録有形文化財(工芸品) となった。


弁財天



弁天様として古来より親しまれ音楽・弁舌・福德・知惠・財宝をつかさどる女神として広く信仰を集めています
この弁天像は供養庚申塔として元禄二年 (1689年)に造塔さたもので右手に剣を握り左手に宝珠を持っています
塔の上部には日月 中ほどには二黒下部には三猿がぞれぞれに刻まれています
弁才天を主尊とした庚申塔としては現在のところ東京では一基と云われています


関屋天满宮



 鎮座のはじめは、村上天皇の時代、天暦三年の二月 (949年)でご神体は菅公の自作 百体彫刻の内の一体で病と伝わり元関屋の里に在って、関屋天神と申しました。
新編武蔵風土記 文政十一年、(1828)の編慕によれ源頼朝が奥州平定後の防御の地として千住の地に関所を設けたことにより、関屋の地名が起きたといわれこの地はその昔、名主庄左ェ門の所有地で、この辺すべて水田や茅野でしたが、度々の出水により、天明七年八月(1787年)当社内に御遷宮されました。
その跡の印として小祠を建て和歌の名所に「関屋の里」 と詠まれたのはこの辺りと思われます。
また塚の周囲の葦が子な片葉であった為に、片葉の天神ともいわれていました。
古くから学業成就の神として里人に親しまれていまます。



鳥居


三峯神社/稲荷神社


鳥居








続く。