2021/05/07 南千住散歩 03 京成本線高架/笠間稲荷神社/千住大橋駅/橋戸稲荷神社/千住橋戸町児童遊園/大橋公園

京成線の高架をくぐって線路北側へ。
笠間稲荷神社の後は日光街道を逆(南)へ進む。



京成本線高架











笠間稲荷神社










千住大橋駅

京成本線千住大橋駅










◆橋戸稲荷神社



この社は、延長四年(926)に創建された。千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓民や、荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。
祭神倉稲魂命と稱し、本殿は延徳二年(1490)、拝殿は文久二年(1862)に建立された。現在の本殿は、土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄2匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。
懐古本殿500年、奉祀天皇陛下御即位大典(皇紀2650年)を記念し、総代氏子中が集い祝祭をあげ、滋に縁起の碑を建立する。


橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵

 当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し、延徳二年(1490)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
 江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
 文禄三年(1594)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
 文久三年(1863)拝殿の前扉に、当時鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白狐が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。


伊豆長八(いずのちょうはち)作鏝絵

 橋戸稲荷神社本殿は、神社建築では珍しい土蔵造りで、足立区登録有形文化財(建造物)である。
 正面、観音開さ左右の扉の内側には、伊豆長八(本名は入江長八) により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐、左扉に雌狐が子狐を抱き、背後にもう一匹の子狐と稲穗が配されている。 子狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差しや優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
 土蔵造りの本殿、鏝絵の図柄とも、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絕えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものいわれる。
 伊豆長八は文化十二年(1815)、伊豆国松崎(静岡県松崎町)に生まれ、文政九年(1826)、郷里で左官となった。夭保四年 (1833)、江戸に出て技術を研き、明治二十二年(1889)、東京深川で没した。 長八の鏝絵は、伊豆はもとより関東・東海の各地に見られたというが、関東大震災などで失われたものが多く、現存する作品は貴重である。


境内社


境内社


鳥居










千住橋戸町児童遊園










◆大橋公園



元禄2年(1689)旧暦3月27日、 門人河合言良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644~1694)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、 多数の門人等に見送られて、関東から東北、 北陸を経て美濃国 (岐阜県) 大垣に至る旅に出発しました。その行程は何と600里余り、 日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。
この紀行が、元禄15年(1702)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。
色蕉の旅から 300年以上を経た今も、 芭蕉およびその文学を追募する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。 矢立初めの地で、 俳聖の遥かな旅に思いを馳せるよすがとしていただくため、 「おくのほそ道行程図」を建
てました。



史跡 おくのほそ道失立初の碑
千しゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泊をそゝく
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なすゝまず、久々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。



おくのほそ道と千住
 日光道中奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄3年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。
 元禄2年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曾良(そら)とともに、千住大橋付近から俳譜紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。
 その後、千住地域は芭蕉の俳譜を追慕する地となり、文政3年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が顕彰したのをはじめ、 下図のとおり、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。


芭蕉が千住で詠んだ俳句
原文
千しゆと云所にて船をあかれは 前途三千里のおもひ胸にふさかりて 幻のちまたに離別の狙をそゝく
行春や鳥啼魚の目ハ狙
是を矢立の初として 行道なをますます 人々ハ途中に立ならひて後かけの ミゆる迄ハと見送なるへし

現代語訳
千住というところで舟から上がると、いよいよこれから前途三千里ともいうべき長い旅に出るのだなあ、という感慨で胸がいっぱいになって、この世は夢幻だという思いはするものの、いざこうして別れ道に立つことになると、いまさらながら離別の涙を流すのであった。
春はもう過ぎ去ろうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚までも感ずるらしく、心なしか、鳥は悲しげに鳴き、魚の目も涙にうるんでいるようにみえる
この句を旅中吟の書きはじめとして、行脚の第一歩を踏み出したのだが、まだ後ろ髪をひかれる思いで、いっこうに歩みがはかどらない。人々は道中に立ち並んで、われわれの後ろ姿の貝見えるかぎりはと、見送ってくれているらしい。


富岳三十六景「従千住花街眺望ノ不二(せんじゅはなまちよりちょうぼうのふじ)」

葛飾北斎(1760~1849)は、冨獄三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不ニ」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨獄三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。


千住の大橋と荒川の言い伝え

大橋と大亀
 千住の大橋は墨田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川とも呼んでいました。昔は文字の示すように荒れる川でありトラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋を架けることは難工事ですが当時土木工事の名人と言われた伊奈備前守忠次によって架けられました。千住の大橋の架橋については”武江年表”文禄3年(1594)の条に「・・・中流急漏にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて船を圧す。船中の人水に漂う。伊那氏熊野権現に折りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に固い所があって橋杭を打込むのに苦労したようです。そうした事から完成時には一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。ここで大亀の話が登場するのです。この附近の川には、ずっと以前から川の主といわれる大亀が棲んでいて、そのすみかが橋の川底にあったので、打込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打込もうとしても橋杭は入っていきません。そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所をさけて岸辺に寄ったほうに杭を打込んだところ、苦労もなく打込めました。見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。川を往来する舟が橋の近くで転覆したり橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返えしたとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋附近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ最大の注意を払いここを通り越すと”ほっと”したそうです。

大橋と大緋鯉
千住の大橋から十数丁遡った対岸の”榛木山(ハシノキヤマ)”から下流の鐘ヶ渕に至る流域を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作っていくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が榛木山から鐘ヶ渕へ泳いでくると橋脚にその巨体をぶつけてしまいます。橋がグラグラ動いて立てたばかりの橋脚が倒されそうになります。橋奉行は付近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲できません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕えられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みましたが、目をつぶされただけで網を破って逃げ去りました。しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にも増して暴れ回り橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いては困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え、大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故が無くなりました。その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事は言うまでもありません。



橋戸河岸で陸揚げされた産物
産物は多種にわたっている。
この中には赤穂塩や斉田塩など中国地方のものや薩摩のものとして知られた黒砂糖など遠隔地の物資も陸揚げされたいた。
その他食品類をはじめ肥料材木石材など多様な産物が取り扱われている。

河川のうつりかわり
千住の南側を弧を描いて流れているのが隅田川である。
江戸時代のはじめには入間川水系の最下流部にあり、入間川と呼ばれていたが、寛永年間に川越市附近で入間川に荒川が繋げられてから荒川の下流となった。
千住では、古くは、渡裸川、千住川、豊島川、大川とも呼ばれていた。

潮待茶屋
江戸時代より千住の市場では船で運ばれた諸国の荷物が活発に取引されていた。
千住では、川は上流から下流に流れるだけでなく、海の干満によって遡行する。
かつて、船が自然の流れを利用していた頃はちょうどよい流れを待つ「潮待汐待」が行われていた。

千住節(川越舟唄)
富士下離れりゃ 荒川までは 竿も櫓櫂も 手につかぬ
 千住出てから 牧の野までは 雨もふらぬに そでしぼる
  千住川さえ 竿さしゃ届く まして届かぬ主の胸
江戸と小江戸と呼ばれた川越を結んだ川越夜舟の船頭達などにより謳われていた。



川蒸氣の登場
江戸時代以来、江戸の交通には舟運も利用されていたが、明治に入り川蒸氣が登場した。
明治八年には千住大橋と両国橋間に川蒸氣船が開通 船賃は六銭であった。
吾妻橋から千住大橋間は二銭、川蒸氣はその後も路線が拡大した。
俗に一銭蒸氣と言う言葉がありますが、これは運賃が一銭であることに因む。

千住の大橋 架橋と変遷
1594年 奉行 伊奈備前守忠次によって初代の橋が架けられた。
位置は現在より弐町(200m)上流と記録されている。
以来、正確な記録は残っていないが、8~16回の架け替えと推定され、橋杭は、槙、楠、檜と記されている。
最後の木橋の位置は、現在の鉄橋の上手部分と完全に一致している。

明治四十三年 下町の大水害
大橋がながされないように橋脚のところに大型の味噌樽や醤油樽に石や砂利を入れて重しにして乗せた。
樽が足りなくて橋の上に多くの人間が乗って流失を防ぎ、又、橋の上から手鉤のついた長い竿で流木が橋脚に当たるのを防いだ。
町の人々を総動員して地域ぐるみで橋を守った。
(古老の話)

3枚の写真は明治43年の大洪水の時のものです。右の説明板と見比べてみて状況を想像してみてください



初代広重の画
1856(安政三)年の成立 下部が南、北岸(左岸)には千住橋戸町の河岸が描かれ川面には多くの船や筏が見える。

葛飾北斎の著名な作品
浮世絵には名所であった千住大橋が多数取り上げられている。絵は葱と思われる荷を背負った馬と人が千住から富士を眺めている構図である。今も千住葱は高級葱として取引されている。



河番付
江戸期の作だが明確な年号は不明である。
橋番付
江戸大川橋(吾妻橋)が1774年の架橋であるから江戸後期の作であると思われる。千住の大橋は日本の橋の中でも行司扱いとされている。


置くのほそ道 旅立ちの地

千しゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泊をそゝく
行春や鳥啼魚の目は泪



 千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(1594年)に、普請泰行(ふしんぶぎょう)伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)によって架けられた橋です。
 文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槙(こうやまき)が使われたと伝えられています。
 その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが大正一二年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和二年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。
 町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。
 その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅(きゃら)にもまさる 千住の槙(まき)の杭」 古川柳



千住川を大橋で渡ると千住の風が吹いてくる 
 ここは大千住の木戸口端人町










続く。