2021/05/07 南千住散歩 05 素盞雄神社

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素盞雄神社



 當社ハ人皇第五十代桓武天皇ノ御宇延暦十四年ノ創建ニシテ第六十四代社司石山多氣乙家祖黒珍ナル者
 當所ニアリテ樹間ノ奇岩ヨリ發スル異光ヲ認メ之ヲ拜シテ遂ニ瑞光ノ中ニ兩神翁ノ形ニ現ハレテ神託ナリ 
 依リテ黒珍此ノ地ニ一祠ヲ設ケテ兩神ヲ祀リ牛頭天王 飛鳥権現ヲ敬稱ス 後ニ牛頭天王ノ祠ノ西面ニ又飛鳥権現ノ祠ヲ南面ニ造營シ六月三日 九月十五日ニ夫々遷座
 天文十年町屋村杢右衛門ナル者 荒川洪水ノ折 古キ神輿ヲ御殿野ニ得テ當社ニ納メテヨリ六月三日神輿渡御ノ儀始マレリ
 享保六年兩社火災ニ罹リ仝十二年一社ヲ造營瑞光殿ト稱ス 當社殿ノ由來茲ニ起ル 
 明治元年官命ニ依リ十二月十七日ヲ以テ牛頭天王ヲ素盞雄大神飛鳥権現ヲ飛鳥大神ト改メ明治五年社格ヲ郷社ニ定メラル
 當社祭神ノ翁ノ姿ニ現ハレ給ワン古跡タル奇岩ヲ瑞光石ト云ヒ 嘉永四年●●●石玉垣ヲ●キ●テ文治元年淺間大神ヲ祀リ岩石ヲ疊ミノ●趣ヲ改メタリ
 又コノ古跡ヲ小塚(古塚)ト云ヒシタリ小塚原・地名起レルナリ

●→読めなかった。






◆福徳稲荷/菅原神社/稲荷社



福徳稲荷神社
稲荷の神は元々は農素の神。米一粒が何倍にも殖えるように広く殖産の神として崇められ、諸産業の守護神として信仰されています
この福徳稲荷神社は、古くより当社門前の方々のご奉仕により、毎年二月「二の午」に稲荷祭を斎行しています。

菅原神社
道真公は平安時代初期の人で、学問の名家に生まれ、文章詩歌に優れた才能を示し、政治家としては右大臣にまでなりました。
教養があり立身出世し、「学問の神さま」広く「文化の神さま」とも仰がれています。
   東風次かば にほひおこせよ
     梅の花  主なしとて春なわすれそ
 春になって東の風が吹いたら、その香りを届けておくれ
 私の家の庭の梅の花よ 主人が居ないからといって春を忘れるなよ
  ー九州大宰府へ行くことになり京都の自宅の庭の梅を見て詠んだ歌

 
稲荷神社
「うか」は食物、「稲荷」は稲生りを意味し、御神像が稲を荷っているところから「稲荷」の字があてられたといわれています。
稲(米)は命の根(イネ)。食物の中心であり、食物は生命の元であるので、その「みたま(魂)」を宇迦之御魂神と称え崇めています。






◆神楽殿




知っていますか?天皇様のこんなこと
◆◆◆ 桃の祓◆◆◆
  汝、吾を助けしが如く、
    葦原中国(あしはらのなかつくに)にあらゆる現(うつ)しき青人草(あおひとぐさ)の、
         苦しき瀬に落ちて患(うれ)い惚(なや)む時、助くべし。
 イザナギノミコトは、死者の国から脱出するとき、桃の実3個を担げつけて追っ手を撃退し、難を逃れました。そして、桃の実に「白分を助けてくれたように、人々が苦しみ困っているときには時けなさい」と告げ、「災厄を祓う偉大なる神霊」という意味のオオカムズミノミコトと名前を授けたことが、我が国最古の歴史書古事記」に記されています。
  <<桃>>桃は邪気を払う霊木として、古くより信仰されています。
      その花を酒に浮かべて飲めば不老長寿の効があるといわれ、
      桃の節句・桃太郎の鬼退治や当社の4月8日[疫神祭 白桃樹御守]も関連するところです。
[桃の破祓]後顧(こうこ)の祓・中今の祓・幸先の祓
浄く明るく正しく直く我が国では、穏やかに、そして清らかな気持ちで日々過ごすことを願い、祈ります。 しかしながら、その暮らしの慌ただしさ
忙しさのなかでは、知らず知らずに罪を犯し穢(けがれ)に触れ、本来の「浄・明・正・直」の心から遠ざかり、心身の乱れを呼び込むこともあります。
気淑(よ)く風和(やわ)らぎの令和脚大典を奉祝し、美術鋳金家 菓子満氏に依頼し、撫で桃[桃の祓]を調裂いたしました。3つの桃の実に後願・中今・幸先
の祓を託し、<<あと・いま・さき>>を祓い清めて<<清々しく>>。






浅間神社と瑞光石



知っていますか?天王様のこんなこと
《瑞光石》
 御祭神すさのお大神・あすか大神が光とともに降臨した小塚の中の奇岩を瑞光石(ずいこうせき)といいます。
 文政12年(1829)編纂の『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋に際して、この瑞光石の根が大川(現・隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
 この瑞光石のある小さな塚から「小塚原(こつかはら)」の地名が起こり、『江戸名所図会』には「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろ こつかはらてんのうぐう」」と紹介され、弁天様を犯る御手洗池・茶屋など当時の情景をもうかがうことができます。元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を泥り、門前の茶店では疫病除けの麦葉の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。
 なお、現在周辺小学校の「第●瑞光小学校」と冠された瑞光もこれに因むものです。



 瑞光石は、素戔嗚神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石(ずいこうけいせき)」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
 嘉永四年(1851)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)には浅間神社を祀った。
 万延元年(1860)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。






庚申塔群三基(寛文十三年銘他)



 江戸時代に建てられた3基の度申塔で、向かって左から、延宝6年(1678) 銘、 寬文13年(1673) 銘、文化8年(1811) 銘があります。
 庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間继統した所願成就の紅証しとして建てられたものです。
 中央の寛文13年銘の庚中塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝6年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。 施主として久兵律衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。
 寬文13年銘と延宝6年銘の庚中塔は、造形上も優れており、他の信伸との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の康中塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。






素戔嗚神社と文人たち



 千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑が多く見られる。
 この境内にも、文人が建てた二基の碑がある。文政3年(1820)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保12年(1841)に建てられた森昌庵追慕の碑である。
 芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関谷在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、「江戸名所図会」などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。
 これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。




知っていますか?天王様のこんなこと
蘇民将来子孫也 》
 スサノオノミコトが、遥か遠くの南の海に要問いに出掛けたときのことです。陽はすでにとっぷりと暮れ、旅に疲れ果てたスサノオノミコトは、蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞いました。
 裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服もよごれたその姿を怪しみ惜しんで拒みましたが、兄の蘇民将来は家も小さく貧しい生活をしていたものの、快く歓迎し、栗の飯で精一杯のもてなしをしたのです。
 それから歳月がたち 。スサノオノミコトは再びその土地を訪れました。そして、かつて自分をもてなしてくれた兄の蘇民将来に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)で作った小さな輪を腰につけていなさい。そうすればきっと、その疫病から逃れ、子孫は永く栄えることでしょう。」と伝えて帰りました。
 その後のこと、二人の兄弟が住む村に突然疫病が流行しましたが、茅の輪をつけていた蘇民将来の家族だけは助かり、弟の目旦将来の家は途絶えてしまいました。それ以来、村人たちは疫病が流行するとロ々に「蘇民将来子孫也」の言葉を唱え、萱の輪を腰につけて疫病から免れるようになったということです。
 この《蘇民将来子孫也》は、降りかかる悪疫災巨から御解神スサノオノミコトにおりいただく言葉として、また、その腰につけた小さな萱の輪は、6月の大紋に御神前に設ける大きな茅の輪(ちのわ)神事・萱の輪守となって現在に伝わっています。






◆天王社の大銀杏(おおいちょう)



 素盞雄神社 の境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏 などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
 この大銀杏は、幹の周囲約三・三メートル、高さ約三十メートルである。
この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。



こんにちは 松尾芭蕉です。
深川を出て、いま千住に着きました。
いよいよ前途三千里(奥の細道)へ出発するのですが、最初の一歩がなかなか出せない問題があります。
(千住の大橋)南詰・北詰。どちらから出発したら良いものか?
些細なことのようですが、後世の両岸にとっては矢立初めの地として本家争い・論争の種にもなりかねない問題なのです。
現実的なことでは川の通行の右左・宿場の大小などですが、詩情豊かな紀行文です。旅は[他の火]で、川は生と死の境界、その向こう岸(彼岸)へ旅立つ訳ですから・・・。
  ~~わたくし松尾芭蕉、悩み疲れました。~~
すこし落ち着きたいと思います。丁度この地には、下野(しもつけ)大関様の下屋敷もあり、旅立ちのご挨拶を兼ね、花のお江戸との御別れの宴でも…。
 では、七ヶ日間ほど逗留することにします。お籠りも兼ねて。
この間、道中笠と杖は使いませんので、ここに掛けておきます。
修験出羽三山とも御縁の深いお天王様ご参拝のこれまた御縁。
宜しかったら、かぶってみてください。
元禄2年(1689)弥生も末の七日の私:松尾芭蕉が何処に立っていたか、(千住の大橋)手前南詰か?向こう北詰か?
ぼんやりと春がすみの中から見えてきませんか。






◆鳥居










続く。