2021/05/07 南千住散歩 07 回向院/常磐線高架/延命寺/南千住駅/スタミナ丼の店

まだまだ南下し南千住駅に戻り、ゴール。



◆回向院



 回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当寺は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内吉田松陰頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和八年(1771)蘭学者杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に解体新書を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。


吉展(よしのぶ)地蔵尊

ちょっと調べたら誘拐殺人事件被害者の供養のために建立されたものとのこと。

『吉展ちゃん誘拐殺人事件(よしのぶちゃんゆうかいさつじんじけん)とは、1963年(昭和38年)3月31日に東京都台東区入谷町(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件。吉展ちゃん事件とも呼ぶ。 』
『日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件がきっかけで、被害者やその家族に対しての被害拡大防止およびプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれた。また報道協定解除後の公開捜査において、テレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオで犯人からの電話の音声を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあった。
犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3か月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。 』
『その後、被害者の供養のため、円通寺の境内には、近隣住民らによる募金などを基に「よしのぶ地蔵」が建立され、奉られている。 』
吉展ちゃん誘拐殺人事件 - Wikipedia


橋本左内の墓

現地には説明板など見当たらなかった。
『橋本 左内(はしもと さない)は、江戸時代末期(幕末)の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳、黎園(れいえん)。諱は綱紀(つなのり)。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある』
橋本左内 - Wikipedia


菌学を生んだ解体の記念に

 1771年・明和八年三月四日に杉田玄白前野良沢中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあつたが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持つて未て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し さつそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年・安永三年八月に、、解体新書五巻をつくりあげた。
 これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり 日本の近代文化がめばえるきつかけとなった。
 さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどつた浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。



道路拡張のためあたらしく設計された本堂の落慶式が今月十日におこなわれた。その機会に この場所を解体記念碑のために提供されたのでよそおいをあらたにしてここに移し 今日除幕の式をあげた それは解本新書の出版から二百年にあたる年にできたことになる。











常磐線高架

こちらをくぐって線路の反対側へ。












延命寺



 小塚原刑場は、火罪·磯·獄門などの刑罰、無縁の埋葬供養、刀の試し切り、肺分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。間ロ六十間余(約108m)、奥行三十間余(約54m)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。
 首切地蔵は、寛保元年(1741)に造立された石造延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(1896)に開業した隅田川線の敷
設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。
 明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、ニ十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。


首切り地蔵



 元禄十一年(1698年)二月十五日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により建立された題目搭。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切乗生の救済のため造立した題目搭のひとつであり、品川の仕置場等100基以上が確認されている。
 十九世紀前半には土中に埋もれていたが、慶應三年(1867年)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光街道中に移設し、小塚原の首切地蔵と並んで安置された。明治二十九年(1896年)、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。












南千住駅

ゴールの南千住駅



近くにあった地図





やはり膝痛い(w
高低差もなく気温もちょうどよくて気持ちよかった♪
散歩の後、高円寺の伝説のすた丼屋ですた丼食べて帰る。






◆スタミナ丼の店



うまかった♪