2024/03/11-14 山形帰省


24時間勤務アケで山形へ帰省。
写真は職場の入っているビル。




今回は「JR東日本たびキュン♥早割パス」を使った。

かなり安くなった♪




◆2024/03/11 山形1日目

新幹線で新潟駅へ向かう。




新幹線車窓



特急いなほ



日本海が見えるとテンションが上がる。


youtu.be




温海温泉到着。
お昼に「ますもと」というお店で両親と食事。


午後は母親の病院などに付き合う。
お医者さんに言われたことを守ってなかったんだね。。。



◆2024/03/12 山形2日目

実家のある「小国」という場所へ。
雪が残ってるね。


鶴岡物産館

お昼ご飯




晩御飯

大好物の「ウマヅラハギ」の唐揚げを食べる。
うまい!



◆2024/03/13 山形3日目

僕が通っていた母校跡を巡る旅に出る。
情報量が多いので別のページへ。

2024/03/13 羽前大山散歩 01 出羽ノ雪酒造資料館/大山橋/皇大神社/向町公園/岡谷地稲荷神社/大山団地/鶴岡市デザインマンホール - ovanの社会科見学

2024/03/13 羽前大山散歩 02 TDK/山田遺跡/郭超橋/工場跡/羽前大山駅/天保恵公園/鶴岡市デザインマンホール - ovanの社会科見学

2024/03/13 羽前大山散歩 03 明治橋/諏訪菓子舗/協立大山診療所/松尾神社/大山公園/旧鶴岡西高等学校/稲荷神社 - ovanの社会科見学

2024/03/13 羽前大山散歩 04 新民館/皇大神社/松倉山馬頭観音/富士酒造/道林寺/皇神社/旧醤油屋丸谷義左衛門宅跡 - ovanの社会科見学

2024/03/13 羽前大山散歩 05 薬王堂/薬師神社/十二神社/主婦の店/幸楽苑/晩御飯 - ovanの社会科見学










◆2024/03/14 山形4日目


特急いなほ
だいぶ遅れて到着。


いなほの車窓

youtu.be



坂町駅の遺構

給水塔



転車台




遅れた影響で新幹線の指定席に座れず・・・・・。
しくしく。。。。。

3月11日~3月17日(山形)

写真
あつみ温泉駅あつみ温泉
鶴岡市小国@あつみ温泉
日本海に浮かぶ粟島@村上

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3月11日(月)晴(東京) 晴(山形)

24時間勤務アケで・・・。

山形へ。

8028歩
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3月12日(火)曇り(山形)

休み♪

山形2日目。

2895歩

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3月13日(水)曇り/雪(山形)

休み♪

山形3日目。


14280歩

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3月14日(木)曇り(山形) 晴(東京)

休み♪

山形4日目。
東京に戻る。
山形まとめ日記。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/04/22/071530

5200歩

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3月15日(金)雨

24時間勤務(当務2)

8485歩

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3月16日(土)晴

24時間勤務アケで・・・。
帰省中にたまったものを片付ける。

8598歩

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3月17日(日)晴

24時間勤務(当務3)

12047歩

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SONY reader

休み。

2024/03/13 松倉山馬頭観音





開基
奈良時代の高僧行基が諸国に仏事を広めるため養老元年(717年) この地、高館山に来国し観音堂を建て開基となっております。
尾浦城時代は武藤氏か尊崇し大変繁昌しましたが武藤氏滅亡後は想像し難い法難を受けたことが伝えられており、三〇〇石が没収され、大山の栗本邸に遷座されたといわれております。
其後幾度かの災厄にあい、現在の御堂は宝暦四年のものです。
屋根上の露盤は大山鋳物師、伊藤備中守藤原朝臣家清の作であり、本尊は馬頭観音といわれていますが、聖観音であります。
正面の額は源忠良 (酒井家十六代)の書であります。
ご祈祷を業としていたが明治に入って廃寺となり、農耕馬、徴兵馬等の信仰が厚く、馬車曵連の記録もあります。
地元の方々が、毎月御堂に集まり御詠歌を上げ、敬虔なお祈りを百年以上にわたり続けております。

仁王門、仁王像
境内に入ると円柱八脚の山門があります。
慶応三年の創建で勾配の美しい入母屋造りで正面には波に鶴亀左右には松の浮彫がしてあります。
仁王像は身丈二六〇糎、足平四五糎の堂々たるお姿です。
北越大川住 後藤重太郎定融の作とあります。

繩巻地蔵さま
一見どこにもある地蔵さまのようですが胴には幾重にも縄が巻かれお顔もはっきりしませんが、笠塔婆か六面幢ではないかともいわれております。
覆堂の合掌には酒ガメの彫刻が飾られ酒屋町らしい建物です。

縁の下地蔵さま
観音堂の階段の下に石造りの厨子があり小さな地蔵さまが祀られております。
子供の夜泣きにご利益があり子を持つ親の厚い信仰をうけています。
お詣りする人は人に見られないと御利益があるそうです。
七月十七日には、参道に地口灯ろうが並びろうそくの明かりで墨絵の観賞や、仁王さまの股くぐり等でにぎわっています。





◆縄巻地蔵尊(六面幢)



縄巻地蔵尊(六面幢)の由来
地蔵信仰は地蔵様が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道)を輪廻転生する衆生をすくうことから起ったといわれています。本来六面幢であったと推定されるこの縄巻地蔵尊は、栗本家文書によれば、かって松倉山に馬頭観音(鎌倉中期作)と共に祀られていましたが、元和四年(一六一八)京都東寺(真言宗本山の陽海上人によって現在地に遷座されたものです。
 繩巻地蔵尊は、人の道にはずれた行為に対する罰を私達の身代りになって受け、永年の間風雨にさらされながら衆生三世の幸福を守り続けた結果このようないたましいお姿になられたものでありましょう。
 平成九年繩巻地蔵尊および地蔵尊座像は駒沢朝霧氏、覆堂は馬頭観音講中のご芳志によって新しく作りかえられました。





◆仁王門





◆山門





場所はコチラ

2024/03/13 新民館





この建物は大山尋常高等小学校校舎として明治三十五年陣屋川南に一五〇〇坪の用地を求め、四四七坪六合の建坪で建築された本校舎二階バルコニーを含む正面部分を保存したものであります。
明治の名匠の手になる豪壮を誇った校舎でありましたが、建物の老朽化、新潟地震の大被害のこともあり、新しい校舎を建て古い物は取り壊すという話になり、これに対し大山の教育の殿堂学校教育の原点、明治時代の学校建築の典型として評価され文化財としての価値もある校舎の印象を後世に残し、種々活用の途をひらくべしとの声が上がり、「新民館保存会」が結成され、地域住民の協賛と鶴岡市よりの援助により昭和四十六年学校前面右方に移築されたのでありました。
本校は明治九年八月二十三日新民学校として新設され明治二十年三月までは新民学校と言っており、これが「新民館」の名称の由来であります。
昭和五十一年大山小学校同窓会の再発足により、その維持管理を保存会より移管して参りました。
今回の学校大幅改築計画によりふたたび移転の止むなきにいたり記念事業実行委員会をたち上げ、各事業の担当部会を組織しその方々の奉仕尽力によりご覧いただきます通りの威容をととのえる事ができました。
鶴岡市当局の英断に深甚な敬意を表しつつ、恵まれた自然環境教育環境の中で大山の子供達が無限の可能性を胸に、健やかに育ちゆくことを念願するものであります。





学童疎開報恩碑





学校前






2024/03/13 大山公園





◆正面口





フキノトウ

正面口近くで見つけたフキノトウ
久しぶりに見た気がする。





◆三吉社鳥居





◆大山(加嘉山)公園八景「南櫻が丘」



専念寺かねの
 聲(こえ)さえかすむなり
さくらが丘乃(の)
 花の真盛(まさか)り
石川梧堂(継述)

『石川 総朋(いしかわ ふさとも)は、江戸時代後期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)6代。書家としても知られ、字を錫我・亀我、号を梧堂また知秋庵と名乗った。 』
石川総朋 (梧堂) - Wikipedia



あづまやから見た景色。
案内図には「厩跡」とあるが、説明版などは見当たらなかった。





◆三吉神社

案内図には近くに「武藤氏本丸跡」「やぐら跡」「西の丸跡」があるが、説明版など見当たらなかった。

大宝寺 義氏(だいほうじ よしうじ) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。大宝寺氏17代当主。武藤義氏とも呼ばれ、越後国上杉謙信と誼を結び上杉姓を名乗ったこともある(山形県史)。大宝寺氏の当主であると同時に羽黒山別当職も務めた。 』
大宝寺義氏 - Wikipedia

↑こちらで合っているかな?
詳しい事をご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>





◆秋野庸彦歌碑



千はやふる 神代の跡を たつねてぞ
 真広きみちを 行へかりける 庸彦

後の文字化は断念・・・。
助けていただける方お待ちしております・・・・。



千はやぶる
 神代の跡をたつねてぞ
真廣きみちを
  行くべかりける
秋野庸彦





◆小祠等





◆碑



余、大山の古城に遊ぶ、山川田野、城都村落、大泉の形勝一覧して尽くすべし、ただ桃李の方華、禽鳥の哀鳴をうくるなし、星薄に山亭に憩う、花下老あり、せつに余になげきて曰く、これもと武藤氏の墟なり、武藤氏亡びてより二百七十有余年社稷煙滅すといえども慰霊なお存す、昔年僧某新たに祠を立てこれを祀る、祠を以て又三吉神主によせる、俗にこれ三吉神という、これに二神おごそかに山下千戸の色にのぞみ以て禍福をなすを知るべし、故に虔誠奉神して福を得る者日月盛なり
邑中の田中政春は難を離れんと日夜神に祷りて、免るるを得る、政春感泣して多く花木を植え以てその徳に酬いるを図る、栽えるところ八百余株、今に至り十有八年、桃桜爛然、山上の春を成すはこれなり、余これを聞き、唱然歎きて曰く、武藤氏数十世この地により、隣国を虎視す、一旦社稷滅すといえども、宜しく祈有るべし、以てその清爽赫赫の民の崇敬にこたうるなり、田中氏誠心請祷してよく難を免るるがごとし、これ其の尤も彰明するものなり、すなわち花木ううるをおもい、以て神の恵に報い、歳に植え歳に殖やして十八年間一日の如くして、山上の祠前にこの爛漫の春をなさしむ、又言うべし、能く困版の時を忘れず、以て神霊に答うるなり、われ異日田中氏の請にこたえ、いささか耳目に属するの所感、以てここに碑にこれを刻む、





加藤嘉八郎有邦 句碑



荒金の土を
  手向けて世を祈る
三吉の御神
  幸あらせ給え
加藤嘉八郎有邦





◆太古橋

下は空堀








◆大山(加嘉山)公園八景鶯谷



 春来ぬと
  よにさき可希(かけ)て
    加嘉(かが)の山
  谷のうぐいす
 今日(けふ)鳴き出でぬ
作者不祥





◆展望台



展望台からの景色




◆古峯神社鳥居





◆古峯神社



 創始年代は天文年間(1532~1554)荘内の地頭 (領主)武藤氏が城を大山公園に築いて以来、城内の鎮守として祀ったことに始まる。武藤氏は代々その居城に八幡宮を建立し、祀っていた御尊像を奉安した。その後武藤氏が亡び元和元年(1658)に「本城のみ支城は破棄すべし」の幕命が下った時、梅本院が居宅の地に遷宮し奉仕。
文化九年(1812) 大山大火災の折御尊像はその類を免れる。
明治の初年、大山村はもちろん庄内各地で火災発生甚だしく「火防の神様」勧請の気運高まり、明治四年(1871)二月、下野国(栃木)鎮座の古峯神社を勧請し八幡台に社殿を再建し古峰神社と称した。昭和二年不慮の事故により社殿被災。翌年八月講員崇敬者の総力結集によって現社殿の復旧をみる。
昭和二十九年、直会殿建設、昭和三十四年、境外地を大山公園敷地として無償貸与することを大山町と誓約調印、合併後は鶴岡市が公園管理に努めている。


大山祇神社


石塔等





◆歌碑



古峯の神
 みそのの境はき清め
ぬさを手向けて
   世を祈るかも
加藤嘉八郎有邦





◆平和慰霊塔


参道


歌碑



明けしらむ
 まては雲なり山桜
櫻井墟山(伊左衛門)





◆大山(加嘉山)公園八景(旭臺(あさひだ)櫻が丘)



師木嶋乃(しきしまの)
 山跡(やまと)ごころを
        人とはば
 朝日に匂ふ
    やま桜花(ざくらばな)
本居宣長





◆尾浦茶屋

やっていなかった。





◆大山(加嘉山)公園八景(旭臺(あさひだい))



 出羽のさと
  ひとめの
    うちに
    阿希(あけ)そめて
 かすみにうかぶ
村の八百嶋(やおしま)
石川梧堂(継述)





加藤嘉八郎





◆眺望景観資産碑



大山公園~尾浦入景~からの自然と市街地と庄内平野をとりまく山々の眺め



初夏遊加嘉山公園 石川梧堂
加嘉公園曳杖遊
羽陽山水眼中收
月峯鳥嶽連東北
花樹霜林春亦秋
琴社苔蒸尋古事
雙湖波静泛漁舟
寄言天下風流客
佳地逍遙散百憂


この場所からの景色





◆武藤家碑



文字化は断念・・・・。


東京尾浦会碑


庄内空港開港記念樹欅碑





◆三春の瀧桜



国の天然記念物に指定された「三春の瀧桜(福島県)」 孫に当たる(成木3本)





◆大山(加嘉山)公園八景(松が崎納涼所)



 夏の日に
  来てもやすらへ
      松が崎
 風もみどりの
   色にこそ吹希(ふけ)
作者不祥





◆展望台






◆大山(加嘉山) 公園八景(躑躅(つつじ)が丘)


]
真荒男(ますらお)の
    こころの色乃(いろの)
      躑躅か那(な)
石川梧堂(継述)

案内図を見るとこの辺りに「尾浦城跡」とあるのだが、説明版など見当たらなかった。
参考
出羽 尾浦城-城郭放浪記





◆自然休養●●●碑

●のところが読めなかった・・・。





◆干害防備保安林




熊って・・・・・。



この辺りの場所から撮ったら雪が迫ってきた・・・





◆記念碑

何の記念碑なのかわからなかった。
ご存じの方は教えてください。
ぺこ <(_ _)>





◆大山(加嘉山) 公園八景(紅葉が丘)



車をとどめて
 坐(そぞろ)に愛す楓林(ふうりん)の晩(くれ)
霜葉(そうよう)は二月(にかつ)の
 花よりも紅(くれない)なり
杜牧





◆あづまや






◆大山公園由来碑

 太平山、金剛山、鳥打山をあわせて大山公園という。
太平山には三吉神社、金剛山には古峯神社が祭られ、その境の空堀には大古橋がかけられている。空堀は大浦城の遺跡である。金剛山の西は新山森といい、鳥打山に続く。天文年間(十六世紀前半)大宝寺(鶴岡)から大浦(大山)にに移った武藤氏がここに大浦城を築いたので城山ともいう。
 嘉永元年(1848)大山村の田中政春が、大山騒動に対する幕府の重い処罰から免れたことを、三吉大神に感謝して、城山に八百余本の桜・桃の木を植えたのか城山への桜植樹の最初である。その後、慶応三年(1867)前庄内藩主酒井忠発が、大庄屋佐藤順太に命じて大山組村々から桜を買上げて植付けさせ、以来城山は桜の名所となった。
 昭和の初め不況が続き、酒造家加藤嘉八郎有邦は大山町民の救済と将来の人々の行楽の地にあてるため、昭和八年(1933)ここに自費をもって一大公園を造る工事を起し同十五年に完工した。園内には、紅葉が丘、南桜ヶ丘、松が崎納涼所、旭台桜ヶ丘、つつじヶ丘鶯谷北桜ヶ丘、旭台の八景が配され、それぞれの眺望を楽しめる加藤氏はここを加嘉山公園と名付け、訪客への園主のの意をこめて自らの石像をたてた。
 昭和十八年公園は古峯神社・三吉神社に寄付され、その後大山公園と改称、昭和二十五年度山形新聞社主催観光山形県一自慢投票では、第一位に当選した。今大山公園は、鶴岡市で管理され東京尾浦会より二万二千本余の桜・つつじ等苗木をいただくなど補植樹に努め、隣接する高館山休養林と共に、多くの人々の散策や行楽の地となっている。





◆尾浦の館





もうちょっとゆっくり巡ってみたかった。
まだ史跡などありそう。
機会があったらまた来たい。





場所はコチラ

2024/03/13 出羽ノ雪酒造資料館




















銚子と徳利
銚子は酒を杯に注ぐ用具で、古くは注ぎ口のある鍋形の容器につるをつけたものでありました。
室町時代になると、つるの代りに長柄をけたものも出て参りました。
前者はつるを手で提げるので提子(ひさげ)、後者は長柄を持って注ぐので、長柄銚子と申しました。
これらの多くは銅製、または木製漆塗りで、陶磁器製のものはあまりありませんでした。
それが後世になると、酒瓶類も皆、銚子と呼ぶようになりました。
徳利は、一般に口が細く、胴がふくらんだ丈の高い陶製の瓶のことをいいます。
古くは、酒のほか酢や正油も入れました。江戸時代になり、酒を温めて飲む、かん酒の風習が起こりまして、はじめはかんなべなどで酒を直接火にかけて温めましたが、後にこれを間接に湯で温めるようになりました。徳利のなかには、直接火にかけてかんをする為、底部を広く平らにしたもの、炭火や熱い灰の中に差し込んでかんする為、差し込む先端部をとがらせたもの、その他、さまざま面白い趣向をこらしたものもございます。




退営記念杯
兵役を済ませて帰郷するとき、知人に挨拶のため配りました。
陸軍は連隊旗、海軍は碇、歩兵、工兵、騎兵、輜重兵、近衛兵、鉄道連隊、看護卒。
それぞれの特性がよく表わされております。
年代順に杯の大きさが小さくなってゆくのも、興味があります。

山形県庄内の農民」
庄内地方は古くから農業技術の研究、研究結果の普及の点について全国でも格別の土地とされて参りました。
水稲の品種改良についていえば現在の東北、北陸地方の代表品種ササニシキ コシヒカリ キヨニシキ トヨニシキ レイメイ 美山錦 これら全て庄内の民間育種家が創選
した育成種の血をうけているのであります。
その情熱の発揮は、品種改良の面だけではなく、乾田馬耕の普及、杭掛(くいがけ)乾燥法、 坪当たり幡種(はしゅ)量、 幡種期の改善、 肥料の分施法等、 技術革新にかける進取の気風、前向きの態度は他に類を見ないものがありました。




「稲の道」
つい近年まで、アジア栽培稲は、インドの低湿地に起源し、そこから世界各地に伝播したとされておりました。 それは、インディカ型であり、 ジャポニカ型は後でそれから派生したと信じられておりました。
しかしながら、京都大学東南アジア研究センター所長渡部忠世教授は調査研究の結果、アジア大陸の稲の伝播の道をさぐると、すべての道はアッサム・雲南の山岳地帯へと回帰すると結論づけられました。
アッサムに参りますと、複雑な地形の上に、約8,000といわれる多様な在来品種が栽培され、水稲陸稲も、インディカジャポニカも、標高差のある立地を選んで共存し、また野生稲群落の分布も広くゆきわたっているのであります。
雲南もまた同様であり、この両地域を結ぶ絆となるのがブラマプトラ川であります。 メコン川、イラワジ川、紅河、揚子江、すべて源は雲南の山地であります。 雲南から東への伝播は、揚子江の流れに沿ってであり、やがて今から2000年余前弥生時代に、日本にたどり着いたものと考えられるのであります。
最初に日本に入ったのは、おそらくモチ稲であった可能性が大であり、これが我国での祭祀にかかわる食事、正月の餅など、晴の行事に関する食素材がもっぱらモチ米であることと深く関連するのではないかと教授は申しておられます。
雲南高原に源を発して、メコン川チャオプラヤ川、イラワジ川をたどった「メコン系列、即ち円い米、大部分がモチ稲 「ジャポニカ型」と、ベンガル湾沿いにインド大陸そしてインド大陸からベンガル湾を渡ってインドシナ半島へと伝わった 「ベンガル系列」即ち粉の形の細長い、ウルチ稲の「インディカ型」、稲にはこの二種類があるのは皆様すでにご承知の通りであります。
ラオス、タイの北部と東北部、ビルマのシャン州とカチン州の一部、アッサム東部、雲南省 広西チワン族自治区の一部では今でもモチ稲だけが栽培されこれを主食としております。
インドシナ半島にインディカ稲が分布したのは十世紀以降のことである事実も、日本の稲作の歴史を考える上で念頭においておく必要がありそうであります。




まぼろしの名酒米(メイサカマイ)」と「庄内の育種農民」
阿部亀治が創選した 「亀の尾」 は、 大正14年には194,914 町歩、 東北六県 粳(ウルチ)稲(イネ)作付(サク ツケ)反別(タンベツ)の35.1%を占め、本邦三大品種の一つに数えられました。
「亀の尾」は酒造米としても非常にすぐれておりました。
工藤吉郎兵衛はこの血を導入して、 さらに「酒の華」 「京の華」「国の華」の三品種を育成しました。
今、酒造米として重用されている 「たかね錦」 「改良信交」 「五百万石」「フクノハナ」 主食米として好評な「ササニシキ」 「コシヒカリ」は、皆「亀の尾」の血をひいております。
山形県庄内地方」 では、この他、佐藤弥太右衛門、 桧山幸吉 須藤吉之助 阿部勘次郎、渡辺寛蔵等々、多数の農民が人工交配までとり入れて品種改良にとりくみ、 その育成種が広く栽培されました。
このようなところは、全国でも全くその例がありません。

阿部亀治翁
明治元年3月9日生れ、昭和3年1月2日没 (61才)東田川郡大和村(現余目町大字小出新田字苧畑割29番地)
明治26年9月29日水稲品種「亀の尾」を創選。
全部湿田組織であった明治20年当時の慣行農法からの脱却をこころざし、卆先して先進地の乾田方式を導入、馬耕方式の普及奨励、 耕地整理事業等に尽力しました。

工藤吉郎兵衛翁
万延元年12月28日生れ、 昭和20年11月18日没 (86才)西田川郡京田村(現 鶴岡市大字中野京田乙51番地)水稲品種 「福坊主」「京錦」「日の丸」 酒米「酒の華」「国の華」など、皆で3千種といわれる多数の品種を創選。文字通り庄内民間育種家の第一人者。
「日の丸」にはイタリア稲の血が流れており、我が国でもっとも早い外国稲導入実用品種であります。




石敢當

そとにあった祠
祠の隣に「内務省指定 史跡 石敢當」という石碑が建っていた。




HPはコチラ
伝統美酒出羽ノ雪-酒造資料館/DEWANOYUKI Museum




定休日
正月三が日
とありますが、行かれる方は事前にHPなどを確認してから行ってくださいネ!




場所はコチラ