2021/06/11 雑司が谷散歩 04 東池袋駅4丁目駅/東池袋駅/飯田橋駅/中野駅/うちからみた夕焼け

もう少し霊園を散策したかったのだが、久しぶりの散歩ということもあってか疲れてしまい、東池袋に戻ってお散歩終了。



東池袋駅4丁目駅

都電荒川線









東池袋駅

東京メトロ有楽町線
この出入り口を使ったのは初めてだなあ。





お墓を探すのって難しいね・・・・。
同じところをぐるぐるまわっちゃった。
あと、場所によっては草がボーボーなので、
蚊も多いしできれば冬とかがいいかも。
帰りは飯田橋→中野 経由で帰った。




飯田橋駅

JRへ乗り換え。







中野駅



少し商店街をブラブラした。







◆うちからみた夕焼け

2021/06/11 雑司が谷散歩 03 雑司が谷霊園

情報量が多いので1ページにした。



今度は東側を巡る。
2021/05/26 雑司が谷散歩 06 雑司ヶ谷霊園 - ovanの社会科見学



◆岩野泡鳴の墓

『岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年明治6年)1月20日 - 1920年大正9年)5月9日)は、明治・大正期の日本の小説家・詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる。 』
岩野泡鳴 - Wikipedia








◆柳敬助の墓

『1881-1923 明治-大正時代の洋画家。
明治14年5月15日生まれ。白馬会洋画研究所で黒田清輝にまなぶ。欧米に留学し,荻原守衛,高村光太郎らと交遊。文展に出品し,二科会創立にくわわった。大正12年5月16日死去。43歳。同年遺作展開催中,関東大震災で作品のおおくが焼失した。千葉県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。旧姓は山田。』
柳敬助とは - コトバンク








◆村山槐多の墓

『村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる
みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した。ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる。 』
村山槐多 - Wikipedia








井上哲次郎の墓

『井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政2年12月25日) - 1944年(昭和19年)12月7日)は、明治時代の日本の哲学者。号は巽軒。通称「井の哲(イノテツ)」。
筑前国生まれ。欧米哲学を多く日本に紹介し、帝国大学で日本人初の哲学の教授となった。また、新体詩運動の先駆者でもある。大東文化学院総長(第2代)などを歴任した。 』
井上哲次郎 - Wikipedia








安藤鶴夫の墓

『安藤 鶴夫(あんどう つるお、1908年(明治41年)11月16日 - 1969年(昭和44年)9月9日)は、小説家(直木賞受賞)。落語、文楽、歌舞伎、新劇の評論家であり演芸プロデューサーでもあった。本名、花島鶴夫。「アンツル」の愛称で親しまれた。

安藤鶴夫 - Wikipedia








押川春浪の墓

『押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は日本の冒険小説作家、SF作家。愛媛県出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。 』
押川春浪 - Wikipedia








◆六代目 尾上菊五郎の墓

『六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年(明治18年)8月26日 - 1949年(昭和24年)7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。
初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に「六代目」と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。 』
尾上菊五郎 (6代目) - Wikipedia








中川一政の墓

『中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年明治26年)2月14日 - 1991年(平成3年)2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 』
中川一政 - Wikipedia








◆北村寿雄の墓

『北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 1982年1月3日[1])は、脚本家、児童文学作家。 東京出身。本名・寿雄。早稲田大学中退。小山内薫に師事し、『劇と評論』同人となる。1936年NHK文芸部主事。戦後1952年から「白鳥の騎士」に始まる「新諸国物語」を五年連続してラジオ放送し、「笛吹童子」「紅孔雀」などがヒットして映画化もされた。
二男は画家の北村芳文(きたむら よしふみ、別名:花船長、1943年5月12日 - )。2018年7月にテレビ東京の番組『家、ついて行ってイイですか?』に出演し、自宅で『七つの誓い』の生原稿など父親の遺品を披露した。 』
北村寿夫 - Wikipedia








福原麟太郎の墓

『福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 - 1981年1月18日)は、日本の英文学者、随筆家。福山市名誉市民。 』
福原麟太郎 - Wikipedia








◆松本虎雄の墓

『1889-1919 大正時代の教育者。
明治22年生まれ。東京麹町区永田小学校の教師。大正8年11月20日井之頭公園に遠足にいき,玉川上水におちた生徒をすくおうとして殉職。31歳。区葬となり,府知事,文相より表彰された。青山師範(現東京学芸大)卒。 』
松本虎雄とは - コトバンク


井之頭公園に行ったときに碑があったのを思い出した。
2018/01/21 01 三鷹散歩 02 諏訪クワガタ昆虫館/萬助橋/松本訓導殉難の碑/お地蔵さん/大盛寺/井の頭公園/いせや - ovanの社会科見学








東郷青児の墓

『東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 - 1978年(昭和53年)4月25日)は、日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた[1]。
独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。 なお、彼の画風は弟子にあたる安食一雄に受け継がれている。ダンディで社交的であったことから女性スキャンダルも少なくなく、愛人のひとり、作家の宇野千代の『色ざんげ』は、東郷をモデルにしている。 』
東郷青児 - Wikipedia








◆ジョン万次郎の墓

『ジョン万次郎(ジョン まんじろう、旧字体:ジョン萬次郎、英語:John Manjirō、1827年1月27日〈文政10年1月1日〉 - 1898年〈明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれた。土佐国(現・高知県)出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次郎)を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことで広まったもので、それ以前には使用されていない。
日米和親条約の締結に尽力し、その後、通訳・教師などとして活躍した。 』
ジョン万次郎 - Wikipedia








◆山本忠興の墓

『山本 忠興(やまもと ただおき、1881年明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 』
山本忠興 - Wikipedia








◆伊澤多喜男の墓

『伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体:伊澤、明治2年11月24日(1869年12月26日) - 昭和24年(1949年)8月13日)は、日本の内務官僚、政治家。 』
伊沢多喜男 - Wikipedia








伊沢修二の墓

『伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 』
伊沢修二 - Wikipedia








◆塩田広重の墓

『塩田 広重(しおた ひろしげ、1873年10月14日 - 1965年5月11日)は、日本の外科医。貴族院勅選議員、日本医科大学学長。』
塩田広重 - Wikipedia








◆渡辺沙鷗の墓

『渡辺 沙鷗(わたなべ さおう、文久3年12月21日(1864年1月29日) - 大正5年(1916年)10月15日)は、名古屋生まれの書家。名は周、沙鷗は号で、別号に飛清閣主・清華道人・東海道人などがある。若い頃は清華と号した。 』
渡辺沙鴎 - Wikipedia








夏目漱石の墓

夏目漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者、俳人。本名は夏目金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の頂点に立つ作家の一人。
代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。 』
夏目漱石 - Wikipedia








◆4代目 松永和風の墓

『松永 和楓(まつなが わふう)は、長唄名跡。4代目のみ「和風」と漢字表記を変えた。』
松永和楓 - Wikipedia








◆十五代目 市村羽左衛門の墓

『十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえもん、1874年(明治7年)11月5日 - 1945年(昭和20年)5月6日)は、大正から戦前昭和の歌舞伎を代表する役者の一人。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。
二枚目や若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。時代を代表する美男子で、そのあまりもの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。 』
市村羽左衛門 (15代目) - Wikipedia
市村羽左衛門 (15代目) - Wikipedia








◆神尾光臣の墓

『神尾 光臣(かみお みつおみ、安政2年1月11日(1855年2月27日) - 1927年(昭和2年)2月6日)は、日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、青島守備軍司令官、第9師団・第18師団長等を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。第一次世界大戦での青島攻略の指揮を執ったことで有名。』
神尾光臣 - Wikipedia








◆片倉鶴陵(元周)の墓

『江戸後期の産科医。世界で最初に係蹄法による鼻茸離断法を実施した。字は深甫,通称は元周。鶴陵は号。相模国(神奈川県)津久井郡生まれ。幼少のとき医師片倉周意の養子となる。12歳ごろ江戸に出て幕府医官多紀元孝(玉池)の学僕となり,元孝の子元悳(藍渓)から漢方を学び,文を儒者井上金峨に学ぶ。25歳のとき白銀町で開業したが,3年後火災にあい本石町に転居。この年京都に遊学して賀川玄迪から産科を学ぶ。江戸に帰ってから再び開業するが,天明6(1786)年に再び火災にあい本銀町に転居。寛政6(1794)年鼻茸手術を創始したりして,名医の評判高く,50歳のとき江戸城大奥の難産に呼ばれ治療した。官位のない町医が江戸城に招かれて治療に当たるのは極めて異例の事である。また町医が『黴癘新書』『傷寒啓微』『保嬰須知』『青嚢瑣探』『静倹堂治験』など多くの著書を出版しているのも珍しい。49歳で刊行した『産科発蒙』にはオランダの産科図や,イギリスの産科書から採った産科鉗子の図を載せ,日本で初めて産科鉗子の使用法を紹介した。<参考文献>森末新『将軍と町医―相州片倉鶴陵伝』 』
片倉鶴陵とは - コトバンク








◆瀬沼夏葉の墓

『瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した]。 』
瀬沼夏葉 - Wikipedia








竹田敏彦の墓

『竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年(明治24年)7月15日 - 1961年(昭和36年)11月15日)は、日本の劇作家、小説家。本名は敏太郎。 』
竹田敏彦 - Wikipedia








島村抱月の墓

『島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎。』
島村抱月 - Wikipedia








◆大井憲太郎の墓

『大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。 』
大井憲太郎 - Wikipedia








成瀬仁蔵の墓

『成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、1858年8月2日(安政5年6月23日) - 1919年(大正8年)3月4日)は、明治から大正のキリスト教牧師(プロテスタント)であり、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学校(日本女子大学の前身)の創設者として知られる。族籍は山口県士族。 』
成瀬仁蔵 - Wikipedia








大須賀乙字の墓

大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人で俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 』
大須賀乙字 - Wikipedia








◆林春雄の墓

『林 春雄(はやし はるお、1874年(明治7年)2月25日 - 1952年(昭和27年)1月1日)は、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医学部薬物学教室の二代教授。東京帝国大学名誉教授。貴族院議員。 』
林春雄 - Wikipedia








前島密の墓

『前島 密(まえじま ひそか、天保6年1月7日(1835年2月4日) - 大正8年(1919年)4月27日)は、日本の官僚、政治家。本姓は上野。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪(こうそう)。日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。今日も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。 』
前島密 - Wikipedia

関連
2013/08/27 part1 逓信総合博物館ていぱーく - ovanの社会科見学








和田垣謙三の墓

『和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日(万延元年7月14日) - 1919年(大正8年)7月18日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。号は吐雲。 』
和田垣謙三 - Wikipedia








水野仙子の墓

『水野 仙子(みずの せんこ、1888年明治21年)12月3日 - 1919年(大正8年)5月31日)は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 』
水野仙子 - Wikipedia








久松保夫の墓

『久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛[1]、1919年6月6日[1] - 1982年6月15日[1])は、日本の男性俳優、声優、青二塾(東京校)初代塾長。最終所属は青二プロダクション[4]。 』
久松保夫 - Wikipedia








◆柏井園の墓

『柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月24日) - 1920年大正9年)6月25日)は、日本のキリスト教伝道者、キリスト教史学者、キリスト教思想家、文明評論家である。大正時代の日本基督教会の指導者であった。 』
柏井園 - Wikipedia








竹久夢二の墓



 大正浪漫を代表寸る画家。明治十七年(1884)九月十六日岡山県邑久郡本庄村に生れた。本名は竹久茂次郎。明治三十四年単身上京し、翌年に早稲田実業学校に入学寸西。本科を卒業し
たのちに専攻科に進むと、白馬会洋画研究所に通った。学生時代から新聞などに小間絵を投書する一方、平民社の機関誌や『東京日日新聞』、『早稲田文学』などに小間絵を寄せていた。この頃、雜司ケ谷鬼子母神近くの農家を間借りして自炊生活をしている。
 明治三十八年六月の『中学世界』に小間絵「筒井筒」が一等入選し、初めて夢二と署名した。「夢二式美人」とぃわれる独特の抒情的ス夕イルを生み出し、一世を風靡した。代表作は「黒船屋」「長崎十二景」「立田姬」 ほかがある。 文筆にお いても、『夢二画集』をはじめ自装の美しい著作物がたくさんある。詩「宵待草」は発表後に曲が付けられて全国的な愛唱歌となった。
 大正元年(1912)第一回夢 二作品展覽会を京都府立図書館で開催。大正三年日本橋に港屋を開き、夢二によるアール・ヌーヴォーの日常品を販売すると、女性だけでなく画家、詩人、文化人など の人気を呼んだ。大正七年、二回目の個展を開き、扉風をふくむ日本画、 油絵、パステル画などを展示した。
 昭和六年(1931)アメリカからヨーロッパへの旅に出るが、翌々年病気にかかり帰国する。昭和九年九月一日信州の富士見高原療養所で肺結核により死去した。九月五日麹町心法寺で葬儀、諡(おくりな)は竹久亭夢生楽園居士。 九月十九日雜司ケ谷墓地に埋葬された。


『竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年明治17年)9月16日 - 1934年(昭和9年)9月1日)は、日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。 』
竹久夢二 - Wikipedia








天野貞祐の墓

『天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年明治17年)9月30日 - 1980年(昭和55年)3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。
第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者武蔵野市名誉市民 』
天野貞祐 - Wikipedia







続く。

2021/06/11 雑司が谷散歩 02 大塚児童遊園/福田稲荷神社/首都高速5号池袋線/御鷹部屋道/鬼子母神道/此花亭

雑司が谷霊園へ向かって南下。



◆大塚児童遊園







◆福田稲荷神社








首都高速5号池袋線

こちらをくぐって高速の反対側へ








◆御鷹部屋道

この道は明和九(1772)年『武蔵国豊島郡雑司谷村絵図』によれば
御鷹部屋道(おたかべやどう)
と記されており霊園西側約九十坪の敷地に徳川八代将軍吉宗が鷹狩りのための鷹の飼育調練に用いた御鷹部屋があったことに由来する。









鬼子母神

この道は明和九(1772)年『武蔵国豊島郡雑司谷村絵図』によれば
鬼子母神道(きしもじんどう)
と記されており音羽道・護国寺裏門から鬼子母神へ通じる道として利用されていたことに由来する。









◆此花亭

ものすごくレトロな建物だね。
ネットで調べるとお花屋さんらしい。







続く。

2021/06/11 雑司が谷散歩 01 東池袋駅/サンシャイン水族館/池袋保健所/としまキッズパーク/早稲田9号踏み切り/君の湯/坂

24時間勤務アケで、サンシャイン水族館後に雑司が谷霊園へ。
今回は水族館やってた。



水族館後に前回(5/26)と違うルートで霊園へ向かった。



東池袋駅




オウルタワー内









サンシャイン水族館















◆池袋保健所









◆としまキッズパーク










◆早稲田9号踏み切り











◆君の湯









◆坂

坂下。



坂上



名前すらわからなかった。
google mapだと丸印のところあたり。









続く。

2021/05/26 雑司が谷散歩 06 雑司ヶ谷霊園

今回は西側の半分だけ巡った。
有名な方がかなり眠っておられる。




今回は西側半分。




◆東儀鉄笛の墓

『東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日(1869年7月24日) - 大正14年(1925年)2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。』
東儀鉄笛 - Wikipedia








◆川本幸民の墓

『川本 幸民(かわもと こうみん、1810年(文化7年) - 1871年7月18日(明治4年6月1日) )は、幕末・明治維新期の医師および蘭学者。名は裕(ゆたか)、号は裕軒(ゆうけん)。父は三田藩侍医の川本周安。その業績から、日本化学の祖とも言われる。
幸民は化学新書をはじめとする科学技術分野の多数の書物を執筆した。専門性を基礎として、白砂糖、マッチ、銀板写真の試作をし、日本における技術の発展に貢献した。 幸民は日本で初めてビールを醸造したと推定されている。また当時用いられていた「舎密」の代わりに「化学」という言葉を初めて用いたことでも知られている。 』
川本幸民 - Wikipedia








◆浜田玄達の墓

『浜田 玄達(はまだ げんたつ、嘉永7年11月26日(1855年1月14日) - 1915年(大正4年)2月16日)は、日本の産婦人科医。 』
浜田玄達 - Wikipedia








中村是公の墓

『中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日(慶応3年11月25日) - 1927年(昭和2年)3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長貴族院議員などを歴任した。
作家・夏目漱石の親友としても知られ[2]、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 』
中村是公 - Wikipedia








◆ルドルフ・レーマンの墓

『ヘニング・ルドルフ・フェルディナント・レーマン(Henning Rudolph Ferdinand Lehmann、1842年10月15日 - 1914年2月4日)は、ドイツの造船技術者、機械工学技師。オルデンブルク大公国・オルデンブルク出身。兄に武器商人のカール・レーマン。独逸学協会名誉会員。 』
『1914年(大正3年)東京にて71歳で死去。墓地は雑司ヶ谷霊園にあり、2004年からは遺族の同意のもと京都薬科大学が管理している。 』
ルドルフ・レーマン (機械工学技師) - Wikipedia









小栗忠順(上野介)の墓

『小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣勘定奉行江戸町奉行外国奉行
通称は又一。「又一」は、代々小栗家当主が名乗る名前。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介と改名した。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。 』
小栗忠順 - Wikipedia








◆御鷹部屋と松



 このあたりには、江戸時代中期の享保四年(1719年)以降、幕府の御鷹部屋がありました。御鷹部屋には鷹匠頭をはじめ目付 同心など常時七、八十名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練等を行っていました。
 また、鷹狩りの際には将軍が立ち寄って休息したり食事をとったりしたこともあったようです。
 御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は当時の様子をしのばせてくれます。








東條英機の墓

『東條 英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日 - 1948年12月23日[1])は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。
現在の百科事典や文科省検定教科書等では新字体で東条 英機と表記されることが多い。
軍人として陸軍次官、陸軍航空総監、陸軍大臣参謀総長、政治家として内閣総理大臣(第40代)、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を歴任した。第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑された。 』
東條英機 - Wikipedia








◆大下藤次郎の墓

『大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は明治時代の日本の水彩画家。』
大下藤次郎 - Wikipedia








◆大塚楠緒子の墓

『大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年8月9日 - 1910年11月9日)は明治末期に活躍した歌人、作家。夫は美学者の大塚保治(入婿)。本名:大塚久寿雄。別名:久寿雄子・楠緒・楠緒子。才色兼備で夏目漱石が恋した人として知られる。 』
大塚楠緒子 - Wikipedia








◆金子馬治(筑水)の墓

『金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日(1870年2月10日) - 昭和12年(1937年)6月1日)は、日本の哲学者、評論家。本名は馬治(うまじ)。』
金子筑水 - Wikipedia








岩瀬忠震の墓

『岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された[1]。維新後に正五位を贈られた。島崎藤村『夜明け前』にも登場する。 』
岩瀬忠震 - Wikipedia








永井荷風の墓

『永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壮吉(ながい そうきち、旧字体:壯吉)。号に金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭(だんちょうてい)ほか。』
永井荷風 - Wikipedia








小泉八雲の墓

『小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・ 小説家・日本研究家・日本民俗学者。 』
小泉八雲 - Wikipedia








羽仁もと子/羽仁五郎の墓



『羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園創立者。また家計簿の考案者としても知られている。 』
羽仁もと子 - Wikipedia

『羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員日本学術会議議員。 』
羽仁五郎 - Wikipedia








安部磯雄の墓

『安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4日〉- 1949年〈昭和24年〉2月10日)は、日本の社会主義者、政治家。
キリスト教人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。早稲田大学野球部創設者でもある。 』
ja.wikipedia.org








大川橋蔵の墓

『二代目 大川橋蔵(にだいめ おおかわ はしぞう、1929年(昭和4年)4月9日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は東京都出身の歌舞伎役者、のち時代劇の俳優。本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。 』
大川橋蔵 (2代目) - Wikipedia








泉鏡花泉斜汀の墓

『泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説のほか、戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎(きょうたろう)。
金沢市下新町生まれ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。 』
『弟も作家で、鏡花の舎弟だというので泉斜汀を名乗ったが、あまり成功しなかった。 』
泉鏡花 - Wikipedia








◆愛知揆一の墓

『愛知 揆一(あいち きいち、1907年10月10日 - 1973年11月23日[1])は、日本の大蔵官僚、政治家。初め参議院議員、後に衆議院議員に転じ、外務大臣や大蔵大臣などを歴任。 』
愛知揆一 - Wikipedia








◆荻野吟子の墓



『荻野 吟子(おぎの ぎんこ(戸籍上の本名:荻野ぎん)、1851年4月4日(嘉永4年3月3日) - 1913年(大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる。』
荻野吟子 - Wikipedia








サトウハチロー

『サトウ ハチロー(1903年明治36年〉5月23日 - 1973年〈昭和48年〉11月13日)は、日本の詩人、童謡作詞家、作家。本名は佐藤 八郎(さとう はちろう)。多くの別名を用いており、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、清水士郎、清水洋一郎、並木せんざ、江川真夫、熱田房夫、倉仲佳人、倉仲房雄、などがある。旧制早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)中退。作家の佐藤愛子は異母妹にあたる。
「うれしいひなまつり」、「リンゴの唄」の作詞者として知られる。 』
サトウハチロー - Wikipedia








村山知義の墓

『村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
息子の村山亜土は児童劇作家。 』
村山知義 - Wikipedia








◆初代喜多村緑郎の墓

『初代 喜多村 緑郎(しょだい きたむら ろくろう、1871年9月7日(明治4年7月23日) - 1961年(昭和36年)5月16日)は、明治 - 昭和期の新派の女形俳優。 』
喜多村緑郎 (初代) - Wikipedia








いずみたく



『いずみ たく(1930年1月20日 - 1992年5月11日)は、日本の作曲家。元参議院議員第二院クラブ)。本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。 』
いずみたく - Wikipedia








◆三代目市川左団次・六代目市川門之助の墓

『三代目 市川 左團次(いちかわ さだんじ、1898年(明治31年)8月26日 - 1969年(昭和44年)10月3日)は、大正から昭和中期の歌舞伎役者。本名は荒川清(あらかわ きよし)。1952年前名市川男女蔵から襲名。屋号は高島屋定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松皮菱に鬼蔦(まつかわびしに おにづた)。俳号は「新車」。
初代市川左團次から二代目市川左團次相伝された男性的な力強い芸風とは大きく異なり、江戸っ子で門弟から芸一筋で出世し門閥の養子として大名跡を襲名した三代目は、様々な役割を器用にこなしながらも、あくまで脇に徹する手堅さを持ち、苦労に裏打ちされた存在感のある独特の風があった。戦後歌舞伎を盛りたてた名優の一人である。 』
市川左團次 (3代目) - Wikipedia

『六代目 市川門之助(ろくだいめ いちかわ もんのすけ、文久2年〈1862年〉- 大正3年〈1914年〉8月)とは、明治に活躍した歌舞伎役者。屋号は瀧乃屋定紋は四ツ紅葉。俳名は新車。本名は荒川清太郎(あらかわせいたろう)。 』
市川門之助 (6代目) - Wikipedia








◆アレクサンダー・ジョセフ・ヘアーの墓



 アレクサンダー・ジョセフ.・ヘアー先生は1848年口ンドンに生まれ、明治の初めに来日、海軍省傭員となる。
 一旦 北米に渡るが、再来日し、1879年 一橋大学の前身である商法講習所(明治八年、1875年森有礼が創設) に着任した。その後、同校の後身である東京高等商業学校を含め通算四〇年間教育に携わり、最古参の 外国人教師として、勲三等旭日章を受けられた。
 ヘアー先生が学生たちに教えた商業英語、商業通信文は開国間もない我が国実業界に大いに貢献した。
 一九一八年五月病没。享年七〇歲。住居の表札に「平谷」と書く茶目っ気もあった。
 墓石および石碑銘文(左記ご参照)は先生の教え子であった同窓有志者により一九ニ九年三月に建立された。

 故アレキサンダー、ジョセフ、ヘヤー君西暦一千八百四十八年九月七日英京倫敦二生レ長シテ「リッチモンドセミナリー」1入リ羅典希臘語ヲ研究シ又沸獨二游ヒ其語学ヲ修ㄙ明治ノ初本邦二来リ海軍省傭員ト為リ其後北米二航セシモ再来商業ヲ営ㄙ明治十二年我東京高等商業学校ノ前身タル商法講習所ノ教師二聘セラル爾来四十季一日ノ如ク帝国商業教育二貢献シタル功績実二偉ナリトス朝廷特二勲三等旭日章ヲ授ケラル大正七年五月九日病没ス齡七十歲君性温厚寡言人敬愛ス今ヤ本校将二大学二昇ラントシテ君在ラス惜ムへキナリ頃日門人等相謀リ碑ヲ建テ且ッ本校内二君/記念図書ヲ備エ以テ遺芳ヲ千載二挹ムト云爾
 大正九年星次庚申三月建之 東京高等商業学校同窓有志者








◆ラファエル・フォン・ケーベルの墓



 ラファエル・フォン・ケーベ ル (1848~1923)は、ドイツ系口シア人の家に生まれ、モスクワ音楽院で音楽を学んだのち、ハイデルベルク大学に移り哲学と文学を学びました。明治二六年(1893)、帝国大学文科大学外国人教師として来日し、首学や美学を講じました。また、東京音楽学校でも教鞭をとりピアノと音楽史の指導に当たるとともに、数多くの演奏会に出演しビアニストとしての手腕も発揮しました。日本の哲学の蒸礎を築き、また、日本近代音楽の葵展に大きな影響を与えたケーベルは、大正一二年(1923)に横浜で亡くなりました。








◆聖心会ミッショナリーの墓地



 聖心会はカトリックの女子修道会で、1800年に聖マグダレナソフィア・パラによって、 フランスで創立されました。その後、世界各地に広がり、1908年には、ローマ教皇ビオ10世の命を受け、女子の高等教育機関設立のために、日本にも聖心会会員が送られました。 それ以来、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ等から来日し、日本の子女の教育に貢献し、1916年から1953年までに没した聖心会会員24名が、ここ雑司が谷霊園に埋葬されています。








森田草平の墓

『森田 草平(もりた そうへい、1881年明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、作家・翻訳家。本名:万戸 満平。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。 』
森田草平 - Wikipedia








◆尾形月耕の墓

『尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日[1]〈1859年10月10日〉 - 大正9年1920年〉10月1日)は、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。 』
尾形月耕 - Wikipedia








佐野利器の墓

『佐野 利器(さの としかた、1880年明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。1950年日本学士院会員。
芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 』
佐野利器 - Wikipedia








雑司が谷霊園管理事務所








金田一京助の墓

金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者民族学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。東京帝国大学より文学博士。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章文化勲章盛岡市名誉市民[1]。歌人石川啄木の親友であったことでも有名。
長男の春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者。 』
金田一京助 - Wikipedia








江戸家猫八の墓

『初代 江戸家 猫八(えどや ねこはち、慶応4年4月3日(1868年4月25日) - 昭和7年(1932年)4月6日)は、物真似師。 』
江戸家猫八 (初代) - Wikipedia








半分以上残っているので別日に行くことにした。
また次回に!!
間違っている箇所があると思います。
ご指摘くださると助かります。
ぺこ <(_ _)>

2021/05/26 雑司が谷散歩 05 金乗院/宿坂/鬼子母神表参道入口/のぞき坂/早稲田30号踏み切り/千登世橋/雑司が谷駅

こちらでも坂を巡りながら少しずつ西へ移動。
雑司が谷駅でゴール。



金乗院

再訪したので別ページへ。
2022/12/05 目白不動金乗院 - ovanの社会科見学







◆宿坂

坂下。
こちらも説明板など見当たらなかった。
左の建物が上記金乗院



坂上









鬼子母神表参道入口

商店街♪









◆のぞき坂

坂上
こちらも説明板などは見当たらなかった。



坂下。









◆早稲田30号踏み切り

都電荒川線の踏切。












◆千登世橋

下は明治通り










雑司が谷駅





散歩は少し暑かったかなあ。
高低差もあって少し辟易した(w
トイレはあちこちにあった。
次回は半分残した霊園(東側)とその近辺の予定。






一つだけ別にした雑司が谷霊園の日記へ続く。

2021/05/26 雑司が谷散歩 04 目白台一丁目遊び場/小布施坂/日無坂/冨士見坂/稲荷坂/稲荷神社/根生院

こちらにある坂は隣どうし。
坂を上り下りしながら少しずつ西へ移動。
こちらは以前の日記とだいぶかぶる。
2018/08/21 江戸川橋散歩 07 日無坂/目白台一丁目遊び場/歩道橋/成瀬記念講堂/旧雑司ヶ谷町/旧雑司ヶ谷町 - ovanの社会科見学




目白台一丁目遊び場



公園からの眺めが良い。







◆小布施坂

坂上
こちらも説明板など見当たらなかった。



坂下。







◆日無坂

坂下。
こちらも説明板など見当たらない。



坂途中の階段下。



坂上







◆冨士見坂

坂上



google mapに「神社」とあったが、それらしいものは見当たらない。
場所は右の建物の奥になっている。
そして今見たらmapのマークが無くなっている・・・。



坂下。







稲荷坂

坂下。
こちらも説明板など見当たらなかった。



坂上







◆稲荷神社

上記稲荷坂の途中にある。
この神社があるあkら「稲荷坂」か?







◆根生院



寛永12年(1636)徳川幕府西の丸祈願所として、神田白壁町に建立。寺領200石を賜る。
正保2年(1645)下谷長者町へ移転。
貞享4年(1687)新義真言宗触頭江戸四ヶ寺となる。
元禄元年(1688)本郷切通坂知足院跡へ移転。
元禄3年(1690)第二世栄専、観音経を講じ、将軍綱吉より寺領100石加増される。
明治22年(1889)上野池端七軒町へ移転。
明治36年(1903)豊島郡高田、田安候旧邸へ移転。


奉供養庚申天子/青面金剛庚申塔


南無大師遍照金剛


大日如来


稲荷大明神


山門











続く。