2021/06/13 01 雑司が谷散歩 07 日出町第二公園/サンシャイン水族館/池袋駅

雑司が谷霊園からサンシャイン水族館へペンギンを見に行く。
その後は池袋駅へ行き、東武東上線へ乗車。



◆日出町第二公園




交通事故で平穏な日常が奪われる人がセロになりますように



 この慰霊碑は交通事故ゼロを目指す新たな未来への「つぼみ」を表現しています。球体は普遍的な日常をあらわし、少し窪んだ部分は事故をイメージしています。そこに雨が降ると水が溜まり、流れ落ちます。それは悲しみの涙をあらわし、地面へ伝い落ちた涙の雨粒は発芽の種、「交通事故ゼロの未来」へ向かう希望の眼としたいと考えました。
 人々の生活の中に安心・安全についての意識が少しでも根付いていくことを願ってます。



 平成31年(2019)4月19日、この場で母子二人が亡くなり、10人が重軽傷を負う悲惨な自動車事故が発生しました。この事故を受けて慰霊碑設置の基金全国各地から寄せられました。
 ここに、亡くなったお二人をはじめとするすべての事故の犠牲者を悼み、二度とこのような交通事故が起きない社会を築く誓いを込めて慰霊碑を設置します。


【図解・社会】池袋で暴走した乗用車の衝突状況(2019年4月):時事ドットコム
この事故の事なんだね・・・・。









サンシャイン水族館

人が多かったので早々に退散。
てか日曜日なんだからしょうがないよね。














池袋駅



東武東上線改札口。









続く。

2021/06/13 01 雑司が谷散歩 06 雑司が谷霊園

情報量が多いので1ページで。
今回は霊園の南側部分。



◆渡辺重石丸(いかりまる)の墓



天保八年十一月、今の大分県中津に生まれる。幼名は重任といい、のちに重石丸と改めた。号を豊城といい、平田とく篤胤の学問の系統を受け継いだ。
明治維新後、京都皇学所御用掛、大学御用掛、並びに教授となり、のち麹町富士見町に私塾「道生館」を設け、その信ずる教育と著述を行った。
多くの著書のうち「固本策」は特に有名で、乃木将軍もこれを読んで感激し、教えを請い指示したという。








福永武彦の墓



『福永 武彦(ふくなが たけひこ、1918年3月19日 - 1979年8月13日)は、日本の小説家、詩人、フランス文学者。』
福永武彦 - Wikipedia








古川ロッパの墓

『古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年明治36年)8月13日 - 1961年(昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。 編集者、エッセイストとしても活動した。』
古川ロッパ - Wikipedia








田鎖綱紀の墓

『田鎖 綱紀(たくさり こうき、安政元年8月15日(1854年10月6日) - 昭和13年(1938年)5月3日)は、日本の速記者。また日本速記術の創始者伊藤博文からは『電筆将軍』と呼ばれた。』
田鎖綱紀 - Wikipedia








成島柳北の墓



お墓がいっぱいでわからなかった・・・。

『成島 柳北 (なるしま りゅうほく、1837年3月22日(天保8年2月16日) - 1884年明治17年)11月30日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、明治時代のジャーナリスト。幼名は甲子麿(こしまろ)、通称は甲子太郎(こしたろう)、後に惟弘(これひろ)、弘[1]。娘婿に成島謙吉。 』
成島柳北 - Wikipedia








大町桂月の墓

『大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は慶大教授の大町芳文、次男は三重大学教授の大町文衛。』
大町桂月 - Wikipedia








◆窪田空穂の墓

『窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人、国文学者。日本芸術院会員。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 』
窪田空穂 - Wikipedia








◆池田菊苗の墓

『池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年5月3日)は、戦前日本の化学者。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。』
池田菊苗 - Wikipedia








◆市原盛宏の墓

『市原 盛宏(いちはら もりひろ、1858年5月17日(安政5年4月5日) - 大正4年(1915年)10月4日)は日本の銀行家、政治家。横浜市長。 』
市原盛宏 - Wikipedia








◆ジョン・ロレンスの墓

こちらは該当する方の特定が難しい・・・・・
ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
ぺこ <(_ _)>








◆鬼あざみ清吉の墓

『鬼坊主 清吉(おにぼうず せいきち、安永5年(1776年) - 文化2年6月27日(1805年7月23日))こと無宿清吉は、江戸時代の盗賊である。 』
鬼坊主清吉 - Wikipedia








白鳥庫吉

『白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年2月4日) - 1942年3月30日)は、日本の歴史学者。文学博士である。専門は東洋史東京帝国大学(現在の東京大学)教授、東洋文庫理事長を歴任した。』
白鳥庫吉 - Wikipedia








今村紫紅の墓
こちらのお墓だけはどうしても見つけられなかった。
『今村 紫紅(いまむら しこう、 1880年明治13年)12月16日 - 1916年(大正5年)2月28日)は、神奈川県横浜市出身の日本画家。本名は寿三郎。35歳(数え年で37歳)で夭折したが、大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた。主要作品『近江八景』連作 (1912年、東京国立博物館、重文))、『熱国の巻』 (1914年、東京国立博物館、重文)など。 』
今村紫紅 - Wikipedia








雑司が谷霊園まとめ
ovanrei.hatenablog.com








ovanrei.hatenablog.com







続く。

2021/06/13 01 雑司が谷散歩 05 腰掛稲荷神社/清土鬼子母神堂/弦巻川自噴井戸/菊池寛旧宅跡/稲荷神社(雑司が谷)/雑司が谷一丁目公園/雑司が谷宣教師館

細い路地を北へ進む。
こちらも以前来たことがある場所があった。
ovanrei.hatenablog.com
2018/08/21 江戸川橋散歩 08 歩道橋/清戸坂/窪田空穂終焉の地/村川住宅/薬鑵坂/旧雑司ヶ谷町/菊池寛旧宅跡 - ovanの社会科見学




◆腰掛稲荷神社

一度来ているが詳しく書いてなかったね。


菊花石(きくかせき)



 岐阜県本巣郡根尾村に産する岩石で、 割った切面に美しい菊花状の模様が現れる。 近年庭石や飾石として珍重されている。赤褐色、朱、 紫などの岩石の地肌の中に白や紅色の菊紋が点在する。中には菊紋の直径が20cmに及ぶものもある。京都や秩父地方でも産出されるが、根尾の菊花石のように見事なものは他に例がない。
平成21年11月・崇敬者より奉納される



 徳川三代将軍家光公が密狩りで当地を訪れた際、ご休息された切り株の傍らにあった祠に大願成就を祈願され、見事に徳川三百年の礎を築け上げたことから正一位腰料掛稲荷大明神と奉称し、江戸時代よりうじがみとしてあつく近隣の崇敬を受けたのが当神社の始まり。腰掛という言葉に大志を胸に秘めて一時、仮に身をおくという意味を持たせるようになったのがちょうど江戸時代のこの頃からと言われ、参勤交代などで志をもって江戸に来た侍や商人、奉公人たちの一時腰掛けの心の支えとして、また近年は、緑結びや合格、就職転職、大願成就祈願など、これから新しい道へ踏み出したい人に開運のご利益のあるお稲荷さまとして崇敬され、今日に至っている。


江戸・東京の農業 平田牧場

 明治の元勲・山形有朋 が出資して、明治5〜6年、平田貞次郎に英華舎・平田牛乳搾乳所(現在の千代区三番町)を開設させ、同10年代には雑司ヶ谷村に牧場 を開設しました。
 清戸坂の道ぞい北側に平田牧場の立派な牧舎があり、隣には牛乳 の小売店として、旗竿には「官許うしのちち」とかなとローマ字書きの旗がかかっていました。
 ここ文京区は、昭和22年に小石川区本郷区が合併、明治以来文教地区であっとことにその名は由来していますが、農業、特に畜産も当区の歴史として一ページを飾っています。
 ペーリー来航で「鎖国令」が解けたことなどから、江戸には欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治10年西南の役が終わった頃より、当区にも牛乳搾乳業者が増加しました。 
 明治中期の資料によると、本郷弓町「牧牛社」、本郷真砂町「真砂社」、本郷森川町「開墾社」、湯崎新花町「厚生舎」、千駄木林町「楽牛園」、千駄木町「友國社」、馬込上富士前町「長養軒」、駒込曙町「曙舎」、小日向茗荷谷町「駒山牧社」、小石川原町「嶺岡牧社」、小石川久堅町「保生舎」など20件近い牧場が集中していました。


庚申塔









◆清土鬼子母神


三角井


吉祥天



 雑司が谷鬼子母神像は清土のこの地から出土され「清土鬼子母神」と呼ばれています。
 その鬼子母神を母に持つ吉祥天は仏教では毘沙門天の妃ともいわれ、福徳安楽を与え、仏法を護持する天女でもあり、左手には如意宝珠を捧げ持っています。


「?」

何が祀られているのかわからなかった。


山門









◆弦巻川自噴井戸



説明板などは見当たらなかった。









菊池寛 旧宅跡



 菊池寛 は、明治二一年(1888)一二月二六日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正一二年(1913)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和十年(1935)芥川賞直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。
 寛は大正一二年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和一二年に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和ニ三年三月六日没。
 「不実心不成事 不虚心不知事」
(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。









◆稲荷神社(雑司が谷

ビックリするくらいわかりづらいところにあった!









雑司が谷一丁目公園









雑司が谷宣教師館

中を見学できるみたいなので今度誰かと一緒に来よう♪















続く。

2021/06/13 01 雑司が谷散歩 04 目白台運動公園/小石川消防署老松出張所/目白台三丁目児童遊園/目白台総合センター/村川家住宅/薬罐坂/旧町名案内板

幽霊坂西側にある目白台運動公園へ入って、また目白通りに戻る。
その後は細い路地へ入り、北へ進む。
やっぱり以前来たことがある場所。
2018/08/21 江戸川橋散歩 04 講談社野間記念館/旧高田老松町/和敬塾/旧高田老松町/小石川消防署老松出張所/目白台運動公園/肥後細川庭園 - ovanの社会科見学
2018/07/07 小日向散歩 03 神田上水旧白堀跡/黒田小学校縁起/旧小日向水道町/福勝寺/横町坂/石切劔箭神社 東京分祠/薬罐坂 - ovanの社会科見学



目白台運動公園

広い公園は逆に密になりやすいね・・・・。
日曜日だったし人がいっぱいいた。








◆小石川消防署老松出張所







目白台三丁目児童遊園







目白台総合センター

WEBで調べると、名前が違う?
目白台交流館となっている??
https://mejirodai-krk.roukyou.gr.jp/annai.html

調べきれなかったので、ご利用される方はご注意を!







◆村川家住宅



 明治時代後期から昭和戦前にかけて建設された和洋折裏住宅である。主屋(しゅおく)・西洋館・表門(ともに1911年竣工)石蔵(1920年竣工)・離れ(1933年竣工)の5棟と石塀(1930年竣工)2基から構成される。
 これらの施主は西洋史学者の村川堅固(けんご)(1875~1946)で、長男で同じく西洋史学者の堅太郎(1907~1991)が継承した。主屋・西洋館・表門は当時小石川区白山御殿町(現・白山三丁目)で建築請負業を営んでいた片山清太郎が施工した。
 住宅の造りは和風住宅の脇に小規模の西洋館を配置した形式をとり、近代化された中規模住宅の典型例といえる。主屋は明治末期から大正期にかけてわが国の住宅に急速に普及した「中廊下形住宅様式」(建物の中央に中廊下が東西に貫通し、 南側に和室、 北側に台所・浴室などを配置)の現存するもっとも古いもののひとつである。文京区のみならず、 わが国の住宅史上非常に貴重な文化財である。







◆薬罐(やかん)坂

坂上



坂下。



 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
    この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)








◆旧町名案内板(旧雑司ヶ谷町)

 延亨3年(1746) 町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。
 昔、小日向の金剛寺(また法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また、建武のころ (1334~36) 南朝の雑士 (雑事をつかさどる)柳下若狭、 長島内匠などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。
 その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹子ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が驚狩のとき、雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。











続く。

2021/06/13 01 雑司が谷散歩 03 関口二丁目歩道橋/東京カテドラル聖マリア大聖堂/ホテル椿山荘/講談社野間記念館/和敬塾/旧町名案内板/幽霊坂

神田川から離れて目白通りへ入る。
通りを北西へ進む。
このあたりも何度か来たことがある場所。
途中幽霊坂へ入り南へ進む。
2018/08/19 護国寺散歩 04 関口台公園/鉄砲坂/東京音楽大学/東京カテドラル聖マリア大聖堂/桂林禪寺/三丁目坂/文京雑司が谷ひろば - ovanの社会科見学
2019/04/07 一人花見(新木場、椿山荘) - ovanの社会科見学
2019/01/28 01 ホテル「椿山荘」 - ovanの社会科見学
2018/08/21 江戸川橋散歩 04 講談社野間記念館/旧高田老松町/和敬塾/旧高田老松町/小石川消防署老松出張所/目白台運動公園/肥後細川庭園 - ovanの社会科見学



◆関口二丁目歩道橋

下は目白通り








東京カテドラル聖マリア大聖堂







◆ホテル椿山荘

会社のパーティで使ったり、お泊りしたり。
思い出の深いホテル。







講談社野間記念館

前回に引き続き今回も休み。
つか、コロナだからしばらくやっていなかったのかも?
と思ってHPを見てみたら建て替え工事中なんだとか。


HP
講談社 野間記念館


講談社野間記念館(こうだんしゃのまきねんかん)は、東京都文京区関口2丁目にある美術館。講談社創業90周年を記念して、2000年4月に設立された。講談社の初代社長である野間清治が集めた「野間コレクション」と呼ばれる美術品をはじめ、同社の出版事業に関係する出版文化遺産なども展示されている。』
講談社野間記念館 - Wikipedia


『野間 清治(のま せいじ、1878年12月17日 - 1938年10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。 』
野間清治 - Wikipedia







和敬塾



 財団法人和敬塾は、首都圏のさまざまな大学で学ぶ男子学生のための学生寮です。海外からの留学生も含め五百余名の大学生・大学院生がここで共同生活を送っています。
 約七千坪の敷地には、学部生寮と大学院生寮、ならびに東京都指定有形文化財の本館(旧細川公爵邸)があります。
 常に理想を求める事業家だった前川善作(一八九五〜一九八六)によって、昭和三十年(一九五五年)この地に和敬塾が設立されました。「国家社会の各方面において中堅となり先達となり支柱となるべき人材の育成」を創設の目的に掲げています。
 聖徳太子 の十七条憲法 の第一条「和をもって貴しとなす」から「和」を、第二条「篤く三宝を敬え」から「敬」をとって名づけられました。
 「人間形成、修養の場として」「日常の共同生活を通じて学生諸君にセルフメイドしてもらう」というのが前川善作の希いでした。
 毎年百余名の若者が社会に巣立ち、多方面で活躍しています。







◆旧町名案内板(旧高田老松町)



 明治5年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩・6万石)、細川越中守(肥後熊本藩・54万石)の下屋敷武家地を合併した。そして、町名を高田老松町とした。
 旧高田老松町76番地の細川邸の門前に昔2株の老松があり、鶴亀松といった。左手の松は見上げるように高くて鶴の松と言い、右手の松はやや低く平らなのを亀の松と呼んだ。
 町名は、この縁起の良い老松からとったといわれる。鶴の方葉明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年頃枯れた。







幽霊坂

坂上
特に説明板などは見当たらなかった。
とてもうっそうとしている。



坂途中。



坂途中。



坂下。







続く。

2021/06/13 01 雑司が谷散歩 02 目白坂/大泉寺/旧町名案内板/永泉寺/養国寺/正八幡神社/幸神社

神田川ちょい北側の坂道を西へ向かって歩く。
以前散歩したときとかぶる。
2018/08/21 江戸川橋散歩 01 江戸川橋駅/関口水道町/江戸川橋/江戸川橋公園/大井玄洞の胸像/目白坂/大泉寺 - ovanの社会科見学
2018/08/21 江戸川橋散歩 02 正八幡神社/養國寺/永和泉寺/旧関口駒井町/旧関口台町/幸神社/神田上水取水口大洗堰跡 - ovanの社会科見学
2018/08/21 江戸川橋散歩 01 江戸川橋駅/関口水道町/江戸川橋/江戸川橋公園/大井玄洞の胸像/目白坂/大泉寺 - ovanの社会科見学



◆目白坂

坂下。



坂上




 西方清戸(清瀬市内)から練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。
 坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
    目白台の空を真北にわたる雁
        稀に見る雁の四・五十羽かも   窪田空穂(1877-1967)








◆大泉寺

関係者以外立ち入り禁止とあったので、外からお参り。
前の時は中まで入っていた。








◆旧町名案内板(旧関口駒井町)

 古くは、関口村の畑地であった。宝永元年(1704)町屋を設け、元文2年(1737)ころ町奉行支配となった。
 町名の由来は明らかではないが、「若葉梢(わかばのこずえ)」に次の記事がある。
 駒止(こまどめ)橋(現、駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころ、この上四ツ谷の南土手に馬を多く宿して、駒込の馬市に出していた。目白不動の門前駒井町にも駒店(こまだな)(馬を売る)があった。
 駒店があり、駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。
 明治4年、新長谷寺(はせでら)門前、大泉寺(だいせんじ)門前および武家地を合併した。
 目白坂上に新長谷寺目白不動)があった。「時の鐘」として有名であったが、戦災に会い廃寺となった。









◆永泉寺








◆養国寺

「養國寺」ともあった。









◆正八幡神社

こちらも以前お参りしたことがある。









◆幸神社(こうじんじゃ)

こちらも以前お参りしたことがある。



 祭神は、猿田彦命稲荷大神である。道山幸神社また駒塚神社とも称した。
 創建年代は不祥。江戸時代、当社の祭神の猿田彦命の神像は、その昔当地の崖下が入江であった頃、海中より出現した神像で、神体全体に蛎殻が付着していたと伝わる。かつては神木の榎が植えられた庚申供養塚があり、そこに猿田彦命を安置したという。
 幸神社が面する道路は、かつて「清土道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つであった。未知の神である猿田彦命を祀った当社は、清土道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人々の安全を祈った祠であった。




旧町名案内板(旧関口台町)

 もと、関口村の内で畑地であった。天和2年(1682)町家を開き、享保5年(1720)から町奉行支配となった。
 町名は、関口村の高台(目白台地)にあったので、関口台町と称えたといわれる。関口の名称は、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったからとも、また神田上水の分水のための大洗堰があったからともいわれる。
 明治5年、旧細川越中守ほかの武家屋敷地及び寺地を併せた。
 目白台下に、松尾芭蕉ゆかりの芭蕉案がある。西隣の胸突坂下には、神田上水の守護神で合った水神社がある。
 芭蕉案や水神社の一帯を椿山といった。鎌倉合戦の頃この辺りに伏兵を入れたとあり、そのころから椿が多かった。







続く。

2021/06/14 01 雑司が谷散歩 01 江戸川橋駅/古川橋歩道橋/古川橋/稲荷社/黒田小学校・文京区立第五中学校跡地/清光院/大日坂

24時間勤務アケで、東京メトロ江戸川橋駅から同じく東池袋経由で池袋へ向かって歩く。
その後は、東武東上線で大山まで乗車。
さらに都営大江戸線新江古田駅まで散歩。




雑司が谷霊園手前まで。



最初に江戸川橋駅から神田川沿いに西へ進む。
上にチラチラ見える道路は首都高速5号池袋線
以前の日記と少しかぶる。
2018/08/19 護国寺散歩 01 江戸川橋駅/華水橋/大日坂/妙足院/小日向二丁目児童遊園/鷺坂/石川啄木初の上京下宿跡 - ovanの社会科見学
2018/07/07 小日向散歩 03 神田上水旧白堀跡/黒田小学校縁起/旧小日向水道町/福勝寺/横町坂/石切劔箭神社 東京分祠/薬罐坂 - ovanの社会科見学








江戸川橋駅

スタートの東京メトロ江戸川橋駅










◆古川橋歩道橋











◆古川橋

下は神田川












◆稲荷社

低い位置にロープで規制がされていたので外からお参り。









◆黒田小学校・文京区立第五中学校跡地



 われらの母校黒田小学校は明治十一年二月ここ小日向水道町に創建された。その校名は当時水道端二丁目居を卜せられた侯爵黒田長知氏が維新の勲功による政府賜米2千石を東京府に献納しもって学校設立の資に充てんことを請願せられたによるものである。尓来、校運、日に隆盛に赴き、昭和十一年七月には旧木造校舎を改築して鉄筋コンクリート造り3階建てとなし、形式内容共に充実した小学校となり校名ますます隆々たるものがあった。たまたま大東亜戦争の勃発に会い、学童を宮城県松島に疎開せしむることとなったが、昭和二十年五月二十五日帝都空襲の戦火に包まれて、校舎は遂に荒廃に帰したために翌二十一年三月廃校となり、ここに春風秋雨七十年の歴史を閉じたのである。校舎はその後修復せられて現に文京区立第五中学校となっているが今校庭に立って黒田小学校が明治大正昭和にわたり幾多有為の人材の揺籠として国運の興隆に寄与した光輝ある歴史を回顧すれば感慨を禁じ得ない。すなわちわれら卒業生有志相謀りここに碑を建てて永く恩師級友を偲ぶよすがとするものである。 



 黒田小学校は、明治11年(1878)第4中学区26番公立小学「黒田学校」として、ここに創立された。
 当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(旧福岡藩主)が明治維新の功労による政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区への学校設立を請願した。東京府はその篤志を伝えるため、校名を黒田学校とした。
 当初の校舎は、南北2棟の木造で8教室であった。昭和11年(1936)、建て替えられて鉄筋コンクリート造り3階建てとなった。
 黒田家ゆかりの藤の花を校章とし、質実剛健を校訓とした黒田小学校は、各界に多くの卒業生を送った。卒業生の中には、松平恒雄(外交官、政治家)、永井荷風(小説家)、黒澤明(映画監督)などがいる。
 昭和20年、空襲で校舎は内部が全焼し、翌年3月31日をもって黒田小学校は廃校になった。
 文京区立第五中学校は、昭和22年4月、六三制による区立中学校の一つとして、区立小日向台町小学校内に設置された。一方、旧黒田小学校の校舎は戦災者の集団住宅となっていたが、昭和24年から内部の改修が行われると同時に生徒の移転が始まり、翌年には全生徒が移り独立校舎となった。
 創立時の教育目標は、民主的で文化的な人間の育成を目指すというものであった。その後改訂を経て、心身共にたくましい人、高い知性と豊かな情操をもつ人、骨身を惜しまず働く人、社会に貢献し信頼される人、といった教育目標を設定した。
 平成21年(2009)3月、生徒数の減少により第五中学校は第七中学校と統合し、文京区立音羽中学校となった。ここに文京区立第五中学校は惜しまれつつ廃校となり、黒田小学校以来の歴史をとじた。









◆清光院

中でお掃除をしていらしたので外からお参り。









◆大日坂


2018/08/20撮影

 「……坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
 この「大日堂、とは寛文年中(1661〜73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
 坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。
 この一円は寺町の感のする所である。
   この町に遊びくらして三年居き
     寺の墓やぶ深くなりたり  折口信夫(筆名・釈超空1887-1953)









続く。