越中島駅までほぼ古石場川親水公園を歩きました。
公園が折れ曲がるあたりに神社が二つ。
そこまで来ると越中島の駅はすぐ近くです。
波除碑
平久橋を渡ってすぐに、洲崎神社にあった「波除碑」の二つ目がありました。
◆古石場川親水公園
江戸時代、江戸城築城に必要な石の置き場であり、江戸市中の家屋の土台石などの加工場、置き場になっていたとのこと。
橋がたくさん架かっている公園ですね・・・・。
アジサイがところどころで咲いてました。
ちどり橋の記憶
牡丹町とちどり幼稚園を結び、多くの人に親しまれていたちどりばし。
ちどりばしの記憶を残すため、橋名板を使用し、記念碑としました。
と、書いてあります。
古石場橋
ここで公園とお別れです。
ちょうどお昼時ということもあって、サラリーマンがお弁当食べたりしてました。
◆二社神社
さきほどの小津橋ちかくの神社です。
てか、神社どこ?
勇気がなくてこれ以上は近寄れませんでした。
四世鶴屋南北宅跡
境内にこんな説明板がありました。
四世鶴屋南北は、江戸戯作界の第一人者で、大南北と称されました。宝暦五年(1755)、日本橋新乗物町に生まれ、文政十二年(1829)11月27日、黒船稲荷地内の居宅で没しました。享年75歳でした。
幼名を源蔵といい、父親は紺屋の型付職人でしたが、狂言作者を志し、家業をすてて初代桜田冶助の門下に入りました。安永六年(1777)、桜田兵蔵の名で作者として初めて中村座に名がでました。以降、「心謎解色糸」「謎帯一寸徳兵衛」などの作品を次々と発表し、当代随一の名作者とうたわれ、文化八年(1811)、鶴屋南北を襲名しました。その後「お染久松色売販」「東海道四谷怪談」などの傑作を書き続けました。
文化十四年(1817)頃には亀戸村に住み、亀戸の師匠と呼ばれていました。また、代表作「東海道四谷怪談」の中に、砂村や深川三角屋敷(深川1-5)をとり入れるなど、本区とかかわりの深い戯作者です。
越中島駅でゴール。
どうせ埋め立て地で何にもない場所なんでしょ?
と、思っていたけど間違いでした(汗
歩いてみなければわからないものですねぇ。
猛省します。