上一色天祖神社は川の向うでした。
川が区境だと思ってたのですが、
少し入り組んでますね。
どこが境目かわからなかった(汗
◆日枝神社
鍵がかかってないみたいなのでたぶん入れたんだろうけど、
中には入りませんでした。
史跡
前は東京府南葛飾郡上一色村字塚之越十八番地村社天祖神社形骸末社祭神水波女之命水神宮 祭神豊受姫命稲荷神社上一色村字稲荷第千六番
明治十八年六月吉日の記録に依る
記 上一色村千百六拾五番地
稲荷神社の遺跡には寛保二年戌支年二月四日とあった今回老朽化した両社の拝殿の改修復に付いて調査結果に依るものであるである由緒経緯については不詳であるが昭和六十年七月吉日上一色農協支部が右之事情に依り南部支部役員が後日の記念として建立してものである。
ここはどこから入ればいいのかわからない場所にありました。
社は見えてるのに入り口がアパートの通路みたいな感じで入りづらい。
反対側に向かうとアパートみたいだったのは公民館みたいな表示がありました。
普通に入ってよい公共の場所だったみたいです。
境内社
何が祀られているのかわからなかった。
境内社
神社わきの出入り口に置かれた祠
ボロボロでした・・・・。
葛飾とその周辺では、昭和20年頃まで各地で草相撲が行われていました。
この句碑は明治29年5月に東京府下、「小松川 清吉」ほか6名の力持連中によって奉納されたものです。。中央に力士(力持連中)たちの心意気が詠まれています。
名をあげて 若き力の 花納
周辺の力石(さし石)を含めて、区内における草相撲のさかんであった様子を示す資料です。
この板碑は室町中期にさかのぼる寛正6年(1465)に月待信仰で結ばれた人々によって建てられたものです。
高さ97cm、幅34cm、上部に日月を配し、中央に阿弥陀如来一尊の来迎像を現し、下部に香炉・花瓶・燭台(しょくだい)を置いた小卓がみられます。 碑は完形にちかく、年号のほか、月待供養結衆」の文字と28名の法名等もよくのこっており、区内の板碑の中で例の少ない画像板碑のさわめて優秀な遺品として貴重な存在です。
なお、この板碑には阿弥陀如来像が刻まれていますが、古くから地元では「ニ十三の勢至様」としてまつられています。
最後はまた新小岩駅に戻ってきて、そこでゴールです。
意外と時間がかかりました。
葛飾区はもうだいぶ散歩した感じです。
※2021/10/08 レイアウト変更と加筆編集した。