2017/07/11 メトロ1日券の旅 01 築地/日比谷公園/大岡越前守忠相 屋敷跡

24時間勤務アケで・・・・・
東京メトロ1日券の旅です。


最初に築地駅下車。
どーしても食べたかったマグロ丼を食す。




そしてすぐにメトロに乗り、日比谷駅で降り、日比谷公園へ。




日比谷公園


日比谷見附跡

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
城の外側から順に、高麗門・枡形・渡櫓・番所が石垣に囲まれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残ってます。
当時、石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池としました。






心字池

ここは日比谷公園ができる前は濠でした。
その面影を残すために公園造成時に行けとしたもので、全体を上から見ると「心」の字を崩した形をしています。
このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。






仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地

ここは、仙台藩伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、正宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された、その敷地は、東西は心字池西側から庭球場東端まで、南北は日比谷掘り沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。正宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。
正宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。




説明版から心字池方向。






水飲み

日比谷公園開園当時のもので、アーク塔と同じ鋳鉄製で統一されたデザイン。園内には馬の水飲みをはじめとする開園時の水飲みが七基あり、当時の公園の様子が偲ばれます。




日比谷公園事務所(東京都公園資料館)






日比谷公園事務所は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治四三年(1910)二月に竣工した建物である。設計者は東京市に務める技師福田重義であった。

(中略)

この建物は、様式の日比谷公園に相応しいように設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒な建築物で、明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重である。





第一花壇

日本最初の洋式庭園として残されたドイツ風の沈床花壇とのことです。






三笠山

この小丘を含むテニスコート西側の一帯は三笠山と呼ばれています。
公園造成時に行けなどを掘った残土で造られた人工の山で、その当時は全体が三つの傘を伏せた形に似ていたのでこの名がついたといわれています。
その後、テニスコートの造成など周辺の整備に伴い、山の形は変わりましたが、三笠山の名は残りました。





自由の鐘


1776年アメリカ独立宣言に際し、自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。
アメリカの民間の匿名有志、複製をリッジウェイ大将に託し、日本におくりたいと申し出た。





一度日比谷公園から出る。




大岡越前守忠相 屋敷跡

名奉行として知られる大岡忠相(1677-1754)は、徳川吉宗江戸幕府八代将軍に就任した翌年(今日ほう2年1717)に江戸町奉行に起用され、以後約20年間その要職にあった。宝暦元年(1751)12月、半年前に没した義宗の後を追うように亡くなった。
この地は、晩年に忠相の上屋敷が置かれた場所である。






再び日比谷公園に戻る



緑と森の市民カレッジ





鶴の噴水

この噴水は、明治38年東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両士に以来制作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。(1番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪の箕面公園
当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。





日比谷野外大音楽堂



日比谷図書文化館



ソーラー時計

この時計は東京都が「文化のデザイン」事業の一環として、「時代の要請にマッチしたもの」との考えで設置しました。
正面に見える十字形のパネルの中には、太陽電池が入っており、太陽の光を電気に変えて、針を動かしています。



日比谷公会堂




噴水



ものすごく広い公園ですね・・・・。
次は虎ノ門のほうに向かいました。