24時間勤務アケで、神田散歩。
駅の南東側を散策した。
◆今川橋跡
元禄四年(1691年)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川と呼ばれるようになった。
この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として十一の橋梁があり、この地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓を取り「今川橋」と名付けられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち始めて渡るのが今川橋であった。
昭和三十五年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、三百六十年の歴史を閉じた。
すごい歴史がある橋なのに、ちょっと寂しいですね。
ちなみに、WEBで調べたら、「今川焼」は、今川橋付近の店で売り出されたことによるとのことだった。
◆石町(こくちょう)時の鐘 鐘撞堂跡
時の鐘は、江戸時代に本石町三丁目に設置された、時刻を江戸市民に知らせる時かねです。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。金は何回か鋳直されましたが、宝永八年(1711)に制作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町5−2)に移されて残っています。
鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町三丁目(現日本橋室町四丁目・日本橋本町四丁目)辺りにあり、本通りから元石町三丁目を入って鐘撞堂に至る道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が、平成十四年三月に「時の鐘通り」と命名されました。
近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘は、オランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
十思公園には以前行ったことがある。
2017/06/20
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170620/1498369199
元々はここにあったんだね。
◆夜半亭 −与謝蕪村居住跡ー
夜半亭は、元文二年(1737)俳諧師早野巴人(はじん)(1676〜1742)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵です。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。
この夜半亭には、多くの門弟ができりしていましたが、なかでも「宰町(さいちょう)」と号していた若き「与謝蕪村」(1716〜1783)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。
蕪村は、安永三年(1774)巴人三十三回忌道善集「むかしを今」の序文で、「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに怪しき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝覚めのうき中にも、予とゝもにはいかいをかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。
寛保二年(1742)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を在住の地と定めます。
やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅(いけのたいが)と並び称されるほどになった蕪村は、昭和七年(1770)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承しました。
鎌倉誂物(あつらえもの) 宰町自画
尼寺や 十夜に
届く 鬢葛(びんかつら)
今度ゆっくり与謝蕪村について勉強することにする。
石町(こくちょう)時の鐘 鐘撞堂跡と、夜半亭 −与謝蕪村居住跡ー の碑は、
ほとんど隣り同しで建っていた。
まだまだ散歩続きます。