2017/07/30 神田散歩 02 長崎屋跡/理容歴史散歩/三越前駅/福徳神社/薬祖神社/古河市兵衛翁像

このあたりも狭い地区にたくさんの碑が建っている。
涼しい季節ならもっと歩くんだけどなあ。
三越前駅周辺を散策。
今まではほぼ南下していたが、東に向きを変える。



◆長崎屋跡

 江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿でした。
諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダは、幕府に謝意を表するために江戸へ参府し、将軍に謁見して献上品を贈りました。
 江戸参府は江戸前期から毎年一回行われており、商館長の他、通訳、医師などが長崎からにぎやかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。
 随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ青木昆陽杉田玄白中川淳庵桂川甫周、平賀源内をはじめとした日本人の蘭学者、医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。
 この地は、鎖国下の日本における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。


聞いたことがある有名人の名前がたくさん。
すごい場所だったんだね。






◆理容歴史散歩

この写真、ちょっとボケてるなあ。



「Hair Salon ONO」さんが、作ったもの・・・・
ということであってる?
WEBで調べたんだが、何故ここにあるのかハッキリと書かれたものがなかった。



三越前駅



福徳神社

江戸時代に富くじの発行を許された、数少ない社寺の一社とのこと。
宝くじの当選祈願ができるとのことです。
そういえば、外れくじを入れるところもあった。









樹齢100年とも推定されるこのクスノキ は、日本橋より東海道山陽道へつながる長崎街道の入り口ともいえる「北九州・旧黒崎」宿の街道脇に、長年に亘って2本並んで佇んでいたものです。その堂々とした姿はまさに御神木 と呼ぶに相応しいもので、五街道 の起点に再生された「日本橋室町野村ビル」の守神として、約1,000kmの道のりを経て移植されました。敷地の北西と南東に植えられた2本のクスノキが、一方は旧中山道 と旧日光街道 の分岐点に立ち、これからも多くの人々の往来を見守り、一方は再興された福徳神社 の御神木として日本橋の街の未来を見守ってくれることを願っています。






本町通りと町年寄喜多村家
本町通りは、徳川家康 が江戸の町造りに着手した時から江戸の中心となっていました。天正18年(1590年)関東に転封となった家康は、浅草に抜ける本町通り沿いに金座や町年寄の屋敷地を下賜しました。現在の天伝馬本町通り(当敷地北側の通り)です。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)更に「天下普請」を開始し、新橋から神田まで南北に貫く目抜き通りを造りました。これが現在の中央通りで、このとき日本橋 が架けられました。翌慶長9年(1604年)日本橋五街道 の起点が設定され、北に向かう中山道日光街道はこの交差点で分岐し、日光街道は本町通りをとって東に向かいました。天正から慶長の城下建設で、奉行衆の下で市街地造成と町割りなどに携わった樽屋・奈良屋・喜多村の三年寄が江戸の町政を担うようになりました。喜多村家の役宅は当ビルの敷地にあり、初代彦右衛門の出身は加賀(金沢)だと伝えられています。


浮世小路と料亭百川(ももかわ)
福徳神社南側の通りは、江戸時代「浮世小路」と呼ばれていました。延宝期(1673〜81年)の「江戸方角安見図」には「うきよしやうじ」と記載されています。小路と呼ぶのは、この地に屋敷があった町年寄喜多村家の出身地、加賀の方言によって発音されていたことを示しています。浮世小路の東端北側には、落語噺の舞台としても知られる料亭百川 があったとされています。百川は江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー 艦隊が来航した時には、乗組員全員にすべて自前で本膳を提供したほどの力がある料亭でした。小路にあった福徳神社 は小さいながら、遠い平安時代前期からこの地に鎮座していたといわれる由緒ある神社です。徳川家康をはじめ歴代将軍から厚く崇敬されましたが遷座や敷地の縮小を繰り返して、今日にいたりました。縁起の良い名前もあって、江戸時代には氏子である瀬戸物町や伊勢町等の商人達から多くの信仰を集め、富くじ興行でも大いに賑わいました。ここ室町をはじめ日本橋地区で働く人々をそれぞれ「福徳神社広場」、「新浮世小路」と名付けました。











◆薬祖神社





古河市兵衛翁像




古河市兵衛翁は天保三年(一八三二年)京都岡崎で生まれる
行商から身を興し明治八年鉱山経営に着手 
その強靭な気根と不撓の行動力により幾多の困難を乗り越え「鉱山王」とよばれる 
足尾銅山の発展を基盤として多角経営に進出 
これが今日における古河グループ発展の基礎となる

この地は翁が明治十年住居兼古河本店とし
その後二十年間事業の拠点とした発祥の地である。



すごい人だったんだね。




福徳神社、薬祖神社、古河市兵衛翁像はほぼ同じところにあった。
続く。