2017/08/07 阿佐ヶ谷散歩 02 天祖神社/関口のお地蔵様/梅郷中央公園/杉並猿田彦神社/馬橋稲荷/桃園川

南に向かって歩いてきたが、中央公園までは東へ。
そこからは北に向かって歩いた。


天祖神社







◆関口のお地蔵様



今から二百七十年前、関口(この土地の地名)のお母さんたち、住民二十六名が念仏講中というグループを作り、毎日の食事から少しずつ削った稗(ひえ)や栗(農家の常食)を堤平右エ門宅へ持ち寄り、お金に替えて貯え、五・六年かかって、元文二年十月(1737年将軍吉宗の時代)に子供の守り本尊として、このお地蔵様を建立しました。このお地蔵さまには、亡くした親の悲しみと、今、生きている子供の成長を祈る親の願いがこめられています。
「この世で、わずかしか生きられなかった子供たちの魂を、救ってくださったり、今、生きている子供たちが健やかに育つよう、いつも見守ってくださっております。」




◆梅里中央公園




関口のお地蔵さまは、目と鼻の先だった。




◆杉並猿田彦神社






◆馬橋稲荷神社



水神社/厳島神社



お稲荷さん

いっぱい・・・・。









◆桃園川




この桃園川は、弁天池(天沼三丁目二十三番)を水源とし、ほぼ東流れしつつ神田川に合流します。
桃園川の名の由来について「江戸名所図会」には、桃の樹が多かったことから「桃園」と称されるようになったとの記述があります。
流域には、縄文時代後期(約四千五百〜三千三百年前)の小山遺跡(阿佐ヶ谷北五丁目三番付近一帯)をはじめ、主に縄文時代埋蔵文化財包蔵地が点在しており、桃園川周辺の台地上は、古くから狩猟や生活の場として利用されていたことが分かります。
桃園川は、主に周辺の人々の水田灌漑用水として利用されてきましたが、その水田も今は埋め立てられてます。桃園川も天沼、高円寺地域の発展とともに、生活用水の流れ込む下水化した川となり、性格そのものを変化させてしまいました。
そのうえ、河底の浅井小河川であったため、台風や大雨時の氾濫は枚挙に暇がなく、生活をおびやかす存在となりました。
そこで、昭和三十年代半ばから行われた河川改修工事によって、桃園川は地上から姿を消し、暗渠(地下水路)へと変貌しました、現在は、歩道あるいは公園となり、今までとは違った姿で区民と接しています。





桃園川を東に歩いていくと家に帰れるのでそのまま帰った。
この日歩いたところは割と神社が大きかった。