24時間勤務アケで岩本町散歩。
雨が降ったりやんだりで、傘を片手に写真を撮るのに苦労した。
最初は神田駅からスタート。
この界隈(かいわい)はかつて神田元岩井町(かんだもといわいちょう)と呼ばれていました。岩井町という名前は、代々徳川将軍家の御用鎧(よろい)師をつとめた岩井家の屋敷があったことに由来するとされています。
この町は、もともと湯島(現在の文京区)にありましたが、天和(てんな)二年(1682年)の大火で付近一帯が焼け野原となりました。そこで幕府は焼け出された人々にこの地を町人地として与え、ここに岩井町が誕生したのです。
ところが享保(きょうほう)年間(1716年〜1736年)、この岩井町も火災にあってしまいます。こんどは柳原土手(現在の神田須田町二丁目、岩本町三丁目、東神田二丁目周辺)が被災した町人に与えられました。このとき、柳原土手に移った人々は、町名を「柳原岩井町」と定めます。一方、移転せずに残った人々は、“こちらが元からある岩井町”という意味を込め、町名を「元岩井町」としたのです。
江戸時代の元岩井町には、金物を扱う商人などがいたようです。文政(ぶんせい)七年(1824年)に書かれた「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」には、釘(くぎ)や銅物などを扱う鉄物(かなもの)問屋・三河屋が町内にあったことが記されています。現在も岩本町二丁目と一丁目を分ける道が「神田金物通り」と呼ばれるのは、その名残なのでしょう。
昭和四十年(1965年)、住居表示の実施にともない、神田元岩井町は、神田松枝町(かんだまつえだちょう)、神田大和町(かんだやまとちょう)などとともに、岩本町二丁目(いわもとちょうにちょうめ)となりました。
天和=てんな
ずーっと「てんわ」だと思ってた(汗
他にもちょっと読めないようなものもあるなあ・・・。
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものに
なり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです
一時は池のほとりに
梁川星巌の玉池吟社
市川寛斎の江湖詩社
大窪詩仏の詩聖堂
東條一堂の瑶池塾
佐久間象山の象山書院
剣士千葉周作の道場玄武館
磯又右衛門の柔道道場
永坂石埭宅 清元太左衛門宅など 文武の華が咲きほこりました
この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があった
ところで東京大学医学部発祥の地です 同学部は昭和33年に迎えた創立百年の記念に
昭和36年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました
東大医学部!!
すごいね。
しかし、池があったなんて信じられないなあ。
ここに流れていた藍染川に架かっていた橋で、「江戸砂子」に「逢初川という。神田鍛冶町一丁目より紺屋町に落ちる大溝である。一丁ほど上にて南北の水の落合、両の水逢そめこの所へ落つるからという。又紺屋町の裏通りなのでその縁によっていふのである。」とあります。
また、橋についても「すじかいにわたってむつかしき橋である。これは大工棟梁弁慶小左衛門の地割の橋であるといふ。」とかかれています。
明治十八年81885)川は埋め立てられましたが、この橋は小左衛門の名作というので、明治三十二年(1889)に廃材を利用して清水谷から赤坂見附の方へ出るところに、同じ橋の名で架設され、古風な江戸のおもかげを残して明治・大正時代の名所となりました。
この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、徐々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初、桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事から、お玉が池と呼ばれるようになったといいます。
近くのお玉が池児童遊園にも、この界隈の説明板があります。
こんなところに不忍池より大きな池があったんだね。
埋め立てられたということは、かなり地盤はゆるいんじゃあ???
次に続く。