2017/08/15 岩本町散歩 02 お玉が池児童遊園/神田松枝町/お玉が池種痘所の記念に/玄武館跡/岩本町馬の水飲み広場

この辺りまで来ると、ちょっと歩いただけですぐに史跡にぶつかる。
歩いた距離はそんなでもないのに数が多くなってしまった。



◆お玉が池児童遊園



中ほどに建っているのは「お玉が池跡」と書かれた碑。




 江戸時代後期から幕末にかけて、神田のお玉が池と呼ばれた辺りは、儒学者・漢学者等が数多く居住して、江戸の学問の中心地の一つをなしていました。しかし、お玉が池と呼ばれた範囲がどの辺りまでか、あるいは文化人がどこに居を構えていたか、ということはほとんど分かっていません。
 現在、左の図にもあるようにこの界隈には、お玉が池とそこで暮らした人々を偲ぶ数多くの記念碑が建てられています。



「全宅連ビル」と書かれたところには行ってないなあ。




◆神田松枝町




 この界隈(かいわい)は、昭和四十年代のはじめまで神田松枝町(かんだまつえだちょう)と呼ばれていた。松枝……松が繁っていた土地、というわけではなく、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来する、という説がある。よほど有能な人だったのか、彼女に屋敷地としてこの一帯の土地が与えられ、宝永(ほうえい)二年(1705年)ころから町の呼び名になったという。
 旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉(たま)が池(いけ)」という広大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔(ちはん)に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」によると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られ、そんな伝説から名が付いたという。現在、そのゆかりの「お玉稲荷(いなり)」がマンションの狭間(はざま)にぽつんと残っている。
 景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていた。その一人である伊東玄朴(いとうげんぼく)ら蘭方医(らんぽうい)たちが尽力して、安政(あんせい)五年(1858年)、種痘館(しゅとうかん)(のちに幕府直轄(ちょっかつ)の種痘所(しゅとうじょ)となる)を設立する。このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点、なのだという。種痘所跡を記す碑が、町内の交差点と少し南方の加島ビル(一階は反物問屋)の所にある。
 周辺をじっくりと散策してみたところ、ほかにも「お玉」の面影を残す“物件”を見つけた。「お玉湯」という銭湯。ビル一階の銭湯だが、湯につかると往時のお玉が池の風景が想い浮かんできそうである。それともう一つ、種痘所跡の石碑の真ん前にあるウナギ料理屋の看板に、「あ玉が池」なるメニューを発見した。入って味わってみたところ、これは「お玉」にひっかけて、ウナギの頭を唐揚げにした珍味。店内には先の「江戸名所図会」に描かれた「お玉が池」の絵が飾られ、その名を付けたミニチュアの池まで設けられている。ちなみにこの店は弘化(こうか)二年(1845年)創業の老舗(しにせ)だが、店を始めた当時、すでにお玉が池は埋めたてられていたそうだ。




◆お玉が池種痘所の記念に






一八五八年・安政五年五月七日、江戸の蘭學醫たちが資金を出しあつて、この近くの川路聖謨の屋敷内に種痘所を開いた。
これがお玉ヶ池種痘所で、江戸の種痘事業の中心になった。ところがわずか半年で、十一月十五日に類焼にあい、下谷和泉橘通へ移つた。
この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるので、その開設の日を本學部創立の日と定め、一九五八年・昭和三十三年五月七日創立百周年記念式典をあげた。
いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえ、また別に種痘所跡にしるし「字が削れて読めない」する


WEBで調べると読めないところあたりは
「種痘所跡にしるしを立てて記念とする」
とあった。
僕の姿がうつってるね(w





玄武館


一生懸命探すが見当たらない!
目と鼻の先に交番があったのでおまわりさんに聞いてみた。
「工事をしているビルの所にあったが無くなってしまい、
また碑を建てるのかどうかも分からない・・・・・」
とのことだった。
よく聞かれるだろうなあ(汗



WEBで調べると元々小学校があった場所みたい。
学校があったなんて信じられないほどビルが立ち並んでいた。
玄武館」は千葉周作が開いた道場があった場所。
千葉家の北辰夢想流と、中西派一刀流を統合し「北辰一刀流」を創設した。
とのことだった。




◆岩本町馬の水飲み広場



この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。



玄武館跡の碑がなくなっていたのはショックだったなあ。
こういうのも少子高齢化で維持したりするのは難しくなると思われる。
早めにまわっとこう。
続く。