2017/08/15 岩本町散歩 03 岩本町駅/既製服問屋街発祥の地/岩本町三丁目/和泉橋/柳原土手跡

山崎製パン本社のすぐ近くに岩本町駅の出口の一つがあった。
和泉橋を渡って秋葉原駅方面へ向かう。



岩本町駅


というか山崎製パンの本社ビルでかい。
ズームしないと駅があるかどうかわからないね・・・・。




◆既製服問屋街発祥の地

次の岩本町三丁目の説明版と並んであった。





 江戸幕府が開かれた慶長年間(1595〜1615)になると, 神田川の工事が行われ 川の南側に土手が築かれました。 特に, 駿河台東端から 浅草橋までの土手は, 太田道灌江戸城の鬼門除けに 柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。
 この柳原土手に沿った地域は, 江戸時代中ごろまでは 大名・旗本らが居住する武家地や 火除明地や 籾蔵の設置場所などでした。 その後, 次第に商人や職人が住む町地となり, 土手のそばには 古着などを扱う 簡素な露天が設けられ, 江戸市中の 古着マーケットの一つとなりました。
 明治6年(1873)になると 土手は崩されますが, 古着を扱う露天は 引き続いて営業しました。さらに, 明治14年(1881)には, 現在の岩本町3丁目10番地 及び 神田岩本町1番地の一帯に, 東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され, 東京の衣類産業の中心地となりました。
 大正12年(1923)9月の関東大震災では, この地区も甚大な被害を受けます。 そして, 震災復興の区画整理により, それまで営業していた露天は取り払われました。 また, 第一次世界大戦後になると, 庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し, 需要の中心も古着から洋服に, 特に 廉価な既製服へと代わりました。 そのため, この地区でも和服に代わり 既製服を扱う店舗が増加し, 「洋服」の町へと変貌していきました。
 戦時下には 統制経済の影響も受けますが, 戦後, 特に昭和30年代になると 東京の衣料業界も復興を遂げ, また技術革新も進み, この地区は洋服の一大生産地となり, 全国のデパート専門店などのウインドーを彩る ファッションの発信地となりました。





◆岩本町三丁目

 江戸時代、この界隈(かいわい)を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町(いわもとちょう)周辺は、江戸城から見れば鬼門(きもん)(北東方向)にあたります。柳森(やなぎもり)神社(現・神田須田町二丁目(かんだすだちょうにちょうめ)の社伝によれば、太田道灌(おおたどうかん)が鬼門除(よ)けに稲荷(いなり)を祀(まつ)り、柳を植えたのが始まりといわれています。
 そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本(はたもと)などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。
 その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881年)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒(のき)を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内には四階建てのビルまで登場し、「和泉橋(いずみばし)ダンスホール」が併設されました。
 このように洒落(しゃれ)て小粋(こいき)な雰囲気を醸(かも)していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。
現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎(いしずえ)を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。




◆和泉橋







この橋の説明はこの下で。







◆柳原土手跡




 『江戸名勝志 』に“柳原土手西は筋違(すじかい)橋(元の万世橋(よろずよばし))より東は浅草橋迄(まで)の間、長さ十丁(約1.1キロメートル)つづけり。柳樹多くあり”とあり、昔このあたりは土手で柳の並木がありました。『柳森神社 記』によると長禄 二年(1458)太田道灌江戸城の鬼門 よけに、柳を植えさせたとあります。又享保 (1716 -35)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。
 昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政 六年(1794)幕府は土手沿いの人家を取り払い火除地 とし、この明(あき)地にその後老中松平定信 は、凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾(もみ)蔵を建てました。安政 三年(1856 )この籾蔵は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町屋ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって、元禄 八年(1695)はじめて社が完成し繁昌したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関東大震災 (1923)で社殿は焼失してしまいましたが再建され境内に力石などが残っています。又土手は昔、葭簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治六年(1873)土手は崩されました。




この碑の裏には「和泉橋」の説明が書かれていた。





 この橋 を和泉橋 といいます。『御府内備考』には藤堂和泉守 屋敷前の通りに架かるゆえに呼名したとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で、神田和泉町の町名 が残っています。
 神田川 の南岸沿いには、柳を植えた土手が築かれていたので、この辺を柳原といい、橋の北側一帯を向柳原といいましたが、明治初年ごろに、柳は枯れたり取除かれ、また関東大震災後の区画整理で、土手も平らになりました。橋はたびたびの火災で焼けましたが、明治二十五年(1892)に鉄橋となり、欄干の唐草模様の中に、神田和泉の文字が崩し模様になっていました。
 大正五年(1916)に鉄橋に架け替え、さらに昭和二年(1927)帝都復興事業 の一環で拡張されました。長さ35.8メートル。幅44メートル。鋼橋。



散歩はまだまだ続く。