2017/08/17 淡路町散歩 01 旭町/佐竹稲荷神社/西郷隆盛会館/一八神社

24時間勤務アケに淡路町周辺を散歩。
神田駅から御茶ノ水駅までかなり寄り道して歩いた。
まずは最寄りの佐竹神社から北へ向かう。


◆旭町

奥に写ってる建物が次の佐竹稲荷神社


 旭町(あさひちょう)は、寛永年間(1624年〜1644年)の江戸図によると、能楽師幸若太夫(こうわかだゆう)と、出羽秋田藩の藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷地でした。
 その後、天和(てんな)二年(1682年)暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は翌年、下谷三味線堀(したやしゃみせんぼり)に移りました。跡地は、新開地とあわせて町人地となり、永富町(ながとみちょう)二丁目〜四丁目、新革屋町代地(しんかわやちょうだいち)、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)の一部となりました。明治二年(1869年)、これらの地域は「旭町」と改名されました。
 旭町は佐竹家の紋から付けられた名前であるということですが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれています。文治(ぶんじ)五年(1189年)、源頼朝藤原泰衡(やすひら)を討伐するため奥州平泉へ向かいました。そのとき常陸国(ひたちのくに)佐竹郷(さたけごう)の武士だった佐竹秀義(ひでよし)は、宇都宮で頼朝の軍に合流し御家人(ごけにん)となりました。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせました。それが佐竹家の「五本骨の扇に月」の紋の由来になったといわれています。
 明治二年、このあたりが、慶長(けいちょう)九年(1604年)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷(かみやしき)だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのですが、月を日輪と間違えて「旭」という町名が発想されたようです。
昭和四十一年(1966年)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

<<一部フリガナを省略>>



◆佐竹稲荷神社





商店街の中にあります。



西郷隆盛会館

google map に載っていたので来てみた。
mixiのコミュニティに、西郷隆盛の精神を学ぶ、寺小屋 と書いてあった。
他にめぼしい情報がない。




◆一八神社



読み方がわからなかった。
近くに「一八通り(IPPACHI-DORI)」と書かれた看板があったので、「いっぱち」でいいと思う。




続く。