2017/08/17 淡路町散歩 04 連雀町・佐柄木町/第一KSビル/昌平橋/神田旅籠町/淡路坂

まだまだ北上する。
ここまでは神田駅から北西方向にだいたい直線。



連雀町・佐柄木町




神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道(なかせんどう)に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負う道ときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子(しょいこ)をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
明暦(めいれき)三年(1657年)の大火「振袖(ふりそで)火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地(ひよけち)として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野(むさしの)に代地(だいち)を与えられ移住させられました。現在の三鷹(みたか)市上連雀下連雀の地名はこの故事に由来します。
一方、安政(あんせい)三年の地図には、この界隈(かいわい)に土井能登守(どいのとのかみ)、青山下野守(あおやましもつけのかみ)などの上屋敷(かみやしき)がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町(さえきちょう)に編入され、連雀町から遷座(せんざ)された出世稲荷(しゅっせいなり)神社は、土井家屋敷内にあった延寿稲荷(えんじゅいなり)神社とともに町内の鎮守(ちんじゅ)となりました。
明治四十五年(1912年)、甲武(こうぶ)鉄道(のちの中央線)万世橋(まんせいばし)駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐(ひろせちゅうさ)の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝(ようしょう)として栄えました。また、寄席(よせ)の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉(ひぐちいちよう)がその著「別れ霜(じも)」において、「神田連雀町とかや、友囀り(ともさえずり)の喧しき(かしましき)ならで客足しげき……」と、その賑わい(にぎわい)を記しています。
大正十二年(1923年)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。





◆第一KSビル

大正14年に建設された鉄筋コンクリート造り地上5階建てのオフィスビル
国の有形文化財に登録されていたが、解体されてしまったとのこと。
2015年には取り壊されていたようである。
つい最近の出来事だねぇ。
見たかったなあ・・・・。
たぶん、この写真の所で合ってると思う。




昌平橋




 昌平橋(しょうへいばし)の架設はきわめて古く、寛永年間(1624〜1644)と伝えられています。この橋は、一口橋(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。
一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
 『御府内備考(ごふないびこう)』に「『筋違いの西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり、聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付給ひしなり。或人の日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方の橋を、今より後昌平橋と唱ふべきよし仰下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々』とかかれています。
 すなわち、元禄四年(1691)将軍徳川綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平郷にちなみ昌平橋と改名させられました。
 明治維新後に相生橋と改められましたが、明治六年(1873)に大洪水で落橋、同三二年(1899)再架してまた昌平橋と復しました。
 現在の橋は、昭和三年(1928)十二月八日に架設されたものです。





◆神田旅籠町


この周辺は、かつて神田旅籠町(かんだはたごちょう)と呼ばれていました。
昌平橋(しょうへいばし)の北側にあたるこの地は、中山道(なかせんどう)の第一の宿場である板橋宿(いたばししゅく)、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)の宿場町である川口宿(かわぐちしゅく)への街道筋として、旅籠(はたご)が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
江戸幕府は、五街道(ごかいどう)のなかでも、遠く京都に通じる東海道(とうかいどう)と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝(にっこうさんぱい)の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
しかし、天和(てんな)二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)でも有名な「八百屋(やおや)お七(しち)」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸(かがかなざわはんてい)跡地に替地(かえち)を与えられました。そして元禄(げんろく)七年(1694年)には、浅草御門の普請(ふしん)のため、馬喰町(ばくろちょう)・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋(すじかいばし)の北側にあった幕府講武所付町屋敷(ばくふこうぶしょづきまちやしき)が神田旅籠町三丁目と改称されました。
さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。「諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)」によれば、嘉永(かえい)(1848年〜1854年)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。




◆淡路坂



この坂を淡路坂といいます。この坂には、相生坂、大坂、一口坂などの別名もあります。坂上に太田姫稲荷、道を挟んで鈴木淡路守の屋敷があり、これが町名・坂名の由来といわれます。一口坂は太田姫稲荷が一口稲荷と称したためです。



まだまだ続きます・・・。