どんどん神田駅のほうに戻っていった。
もっと細かくチェックしておけばよかったなあ。
歴史的な建造物が多いということは、
空襲の時も焼けずに残ったということかな?
◆松尾神社
中に入れなかった。
◆松本家住宅主屋
国の登録文化財とのこと。
こちらに詳しい説明が書いてあった。。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/345/Default.aspx
これも古い建物だなあ。
看板建築ではなさそう?
ラーメン屋さんみたいなので、今度食べに行ってみよう。
◆淡路町一丁目
江戸時代のはじめ、この地には将軍家と関係が深い寺院がありました。
「寛永江戸図(かんえいえどず)」によると、観音坂を下りきったあたりに「西福寺(さいふくじ)」「西念寺(さいねんじ)」が記されています。西福寺は慶長(けいちょう)三年(1598年)、徳川家康が故郷の三河から呼び寄せた寺です。一説には、永禄(えいろく)三年(1560年)の桶狭間(おけはざま)の戦いの際、織田軍に包囲された家康を救ったのが同寺の了伝和尚(りょうでんおしょう)で、家康はこの恩にむくいるため、新たな寺を寄進したともいわれています。
寛永年間(1624年〜1644年)にこの二つの寺が移転したあと、ここは内藤伊賀守(いがのかみ)の屋敷となりました。そして貞享(じょうきょう)四年(1687年)以降は豊後府内(ぶんごふない)藩主である大給(おぎゅう)松平家の上屋敷となり、幕末を迎えました。
明治五年(1872年)、この界隈(かいわい)は、神田淡路町一丁目と正式に名付けられました。この名前は、鈴木淡路守(あわじのかみ)の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂」(現・神田淡路町二丁目(かんだあわじちょうにちょうめ))に由来しています。
明治五年当時は、町内のほとんどが華族)である大給近道(おぎゅうちかみち)の屋敷地だったと「東京府志料(とうきょうふしりょう)」に記されています。
これもヨミガナがないと読めない漢字が多いなあ。
「大給」=おぎゅう
これは、絶対読めない(w
続く。