散歩の途中、このエリアには製薬会社が多いことに気が付いた。
アース製薬、武田薬品、大鵬薬品、大塚製薬・・・・・・
有名な企業さんだらけ。
で、気になってちょっと調べてみた。
もともとこのあたりに薬問屋が多く集まっていたことに由来。
1687年に刊行された『江戸鹿子』という書物には、江戸には36件の薬種問屋・製薬屋があり、医者の数は72にのぼったという記録が残されているとのことだった。
薬問屋が多く集まっていたことに対しては探しても見当たらなかったので推測だが、城下町の特徴として同業者を一か所にまとめて町づくりをしたので、江戸城下では薬屋はここに集まりなさいってことだったんだと思う。
推測なので真にうけないでねー。
散歩は終盤。
東にある神田駅に向かって進む。
◆豊川稲荷神社
先ほどの東京電機大学跡の周りをぐるっと周ったら見つけた。
◆神田錦町二丁目
江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねる地域でした。当時の武家地には町名がなく、かわりに「錦小路(にしきこうじ)」という通称で呼ばれていました。もともとは「二色(にしき)小路」という字を当てていたとされるこの呼び名は、近くに一色(いっしき)という名の旗本の家が二軒あったことに由来するといわれています。
錦という名の由来については、この周辺を所有していた護持院(ごじいん)に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂が建っていたためという説、住人が京都にある錦小路にあやかりたいと考え、錦と付けたという説もありますが、本当のところははっきりしていません。
護持院は、享保二年(1717年)の大火で跡形もなく焼け落ちてしまいました。江戸城外堀に隣接する地域で起こった火事に幕府関係者は驚き、護持院の跡地だけでなく、周辺の武家屋敷も召し上げて火除地(延焼防止の空き地)としました。この広大な火除地はのちに「護持院原(ごじいんはら)」と呼ばれ、将軍の鷹狩などがおこなわれました。
神田錦町二丁目という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことです。明治十八年(1885年)には、中央大学の前身である英吉利法律学校(いぎりすほうりつがっこう)が開学しています。明治四十年(1907年)に小川町で開学した電機学校(東京電機大学の前身)は、昭和になってこの町内に移ってきました。武家地だったこの界隈は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。
明治四十四年(1911年)、町名から神田が外され錦町二丁目に変更されますが、昭和二十二年(1947年)にはふたたび神田錦町二丁目となり、現在に至っています。
◆東京電機大学
先ほどの跡地のほかに建物があった。
◆和光稲荷神社
マンション?の公開空地の中にあったのだが、その建物には誰もおらず、立ち入りができないようにフェンスに囲われていた。
建て替えるんだろうか?
せめて神社の所だけは入れるようにしてほしかったなあ。
◆神田駅
ゴールです。
財布の中身が潤沢だったら、この時散歩したエリアに住んでみたいなあと思った。
歴史があって新しいものもあって、なにより活気があって元気になれそうな街だった。