24時間勤務アケに、一人で東京駅から皇居、神保町、水道橋を散歩。
まずは東京駅から皇居までの史跡を巡り、和田倉噴水公園まで。
再開発でなくなっているのがあって、悲しくなった。
三菱信託銀行の壁面にあったとのことですが、建物自体がない。
確認できたブログに張り付けてあった写真の撮影日が2003年9月と書いてあった。
かなり前だなあ。
碑ぐらいは残しておいてもらいたいものだね。
◆日本歯科大学発祥の地碑
中原市五郎は, この地に, 明治四十年六月(1907), 公立私立歯科医学校指定規則に基づく わが国最初の歯科医学校として, 私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は 黎明期にあり, 「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。 国民の生命と健康を守るため, 歯・顎・口腔の医学を教導し, 数多くの優れた歯科医師を 輩出し, 歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治四十二年に現在の千代田区富士見 一丁目に移転し, 日本歯科医学専門学校を経て昭和二十二年に日本歯科大学に昇格した。日本 歯科大学は, 私学として「自主独立」という建学の精神を継承し, 生命歯学部と新潟生命歯学部の二学部をはじめ, 大学院二, 付属病院三, 短期大学二, 博物館一を有する世界最大の歯科大学となった。
博物館?
ということで調べたら、新潟県にあるとのこと。
日本歯科大学新潟生命歯学部 「医の博物館」
越後線関屋駅下車、徒歩約15分のところにあるらしい。
行きたい!!
◆評定所/伝奏屋敷跡
こちらも何も残ってなかった。
評定所をwikiで調べると、
『江戸城外の辰ノ口(現在の千代田区丸の内一丁目4番南西部で丸の内永楽ビルディングがある位置。明治維新直後には糾問所が置かれ新撰組隊士2人が調べを受けた)にあり、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中1名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。とくに寺社奉行・町奉行・勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所のもっとも中心になる構成員であり、寺社奉行4人、町奉行2人、公事方[1]の勘定奉行2人を「評定所一座」と称した。』
伝奏屋敷をWEB辞書で調べると、
『江戸時代、武家伝奏または勅使の宿所として江戸に設けられた邸宅。』
武家伝奏をwikiで調べると、
『武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。』
公卿も調べた・・・
『公卿(くぎょう)とは、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。』
奏請も調べた・・・
『天皇に申し上げて、その決定を求めること。』
分からない言葉だらけ・・・(汗
この橋を和倉橋といいます。ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。
慶長七年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長十二年(1607)の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。
和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されています。警備は、譜代大名で二万石から三万石の者が担当していました。
この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。
散歩はまだ続く。