2017/08/27 01 大手町散歩 02 大手門/市内最初の並木/江戸城此/将門塚

皇居の周りでサイクリングのイベント?
と見てたら、毎週日曜日に行われてる「パレスサイクリング」とのこと。
車が入れないように規制されてた。
そんなの毎週やってるんだねぇ。


散歩は大手門から一ツ橋の方へ。
皇居ランナーがいっぱい。




◆大手門



特に説明板などはなかった。
門の内側に入れるので、中に説明板などはそちらにあると思われる。
かなり昔に入ったことがあるのだがどうだったか忘れた。
また行ってみよう。



◆市内最初の並木




 明治八年「ニセアカシア」を、この道路に植えた。
 蘭学者津田仙翁が明治六年ウィーン万国博覧会の際に種子を持ち帰り育成したもので、外来種による東京市最初の街路樹である。
 なお、現在この通りの街路樹は「エンジュ」である。



江戸城

google map に載っていたので来てみたのだが、何もそれらしいものがない。
調べてもこの場所に関するものが出てこなかった。
マークの場所はだいたいこの辺り。




◆将門塚







 平将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。徳治二年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。幾多の変遷の後、昭和四五年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。



 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931〜946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。



 酒井家上屋敷
 江戸時代の寛文年間 この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり 歌舞伎の『先代萩』で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸原田甲斐の殺害されたところである。




 将門首塚の碑
 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在使の後にある石塔場は徳治二年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 明治二年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳朗は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。




門首塚の由来
 今を去ること1050有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして板東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。
 将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため、徳治2年、時宗二祖真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 天慶の乱の頃は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我が世の春を謳歌していたが、遠い板東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃(かんばつ)が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲(ここ)にその由来を塚前に記す。




散歩はまだまだ続くのだ。