2017/08/27 02 神保町散歩 02 共立講堂/日本野球発祥の地/神保町駅/一ツ橋二丁目・神田神保町二丁目

前の日記から白山通りを北上しているのだが、両脇にすごい歴史のある建物や碑が多いね。
もしかしたら見逃してるのもいっぱいあると思う。



◆共立講堂

千代田区景観まちづくり重要物件とのこと。
構造設計は、東京タワーの設計者としても知られる内藤多仲博士。
意匠設計は前田健二郎氏。
戦後はこのような大講堂が都内にも少なく、音楽関係の公演のメッカとして知れわたったということです。




◆日本野球発祥の地



 この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。
1872(明治五)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843〜1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが 「日本の野球の始まり」といわれている。 76年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。
 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州 ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、71年9月にサンフランシスコで日本 政府と契約し、来日。77年7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。
 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。 2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。
まさにこの地は 「日本野球発祥の地」である。



神保町駅



◆一ツ橋二丁目・神田神保町二丁目

神田神保町二丁目は、一丁目とともに世界に誇る古書店街として知られていますが、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいました。町名の由来は、元禄(1688年〜1704年)ごろ、現在のさくら通り(救世軍本部の横)のあたりに神保長治(じんぼうながはる)という旗本(はたもと)が広大な屋敷をかまえ、付近に神保小路という通称が生まれたことからです。一ツ橋はさらに古く、徳川家康が江戸入府のころ、日本橋川(現在の外堀)に架けられた橋の名称に由来するものです。
明治五年(1872年)の市区改正で、この地区は南・北神保町と呼ばれるようになりました。そのころはまだ人口の少ない場所でしたが、付近の一ツ橋地区に開成学校をはじめ、東京大学、東京英語学校などが連なる文教地区として発展したため、神保町一帯には多くの書店が軒を並べるようになりました。明治後期には隣接の町内を含めて数十軒の古書店が生まれ、大正の初期には周辺の学校は七十以上を数え、新刊書店や出版社も増加しました。昭和戦前にかけては、喫茶店や映画館も含む学生街として大いに繁昌(はんじょう)したものです。
第二次大戦中、神保町と一ツ橋地区はともにアメリカ軍の空襲を免れました。神保町は昭和二十二年(1947年)に神田神保町と改められ、その後も、隣り合う一丁目や三崎町、小川町(おがわまち)なども含む古書店街として発展を続けてきました。一ツ橋一帯は企業が集中し、昭和四十一年(1966年)には竹橋や神保町など、地下鉄の各駅も誕生して交通至便となり、近年は海外から訪れる人も増えています。
私は半世紀以上も前、高校生時代に初めて一ツ橋の共立講堂を訪れて以来、この地区全体の文化の香りに引かれ、とくに書物文化の奥深さに強く魅せられるようになりました。以後も週に一度ぐらいは必ず訪れていますが、その間にめずらしい本、貴重な資料を見つけた経験も数多く、古書店の主人から書物のことを教えられたこともあります。手に入れたばかりの本を近くの喫茶店で開くのを、いまでも最大の楽しみとしています。伝統ある二つの町のたたずまいは、東京の中心部にふさわしい品位を備えているようです。


繁昌→これで「はんじょう」なんだね。
繁盛とどう違うのかな?
神保さんっていう旗本さんが居たんだねぇ。



散歩はまだまだまだまだ続く。