2017/08/27 02 神保町散歩 04 安全地蔵尊/西神田公園/西神田/山田顕義先生之像/三崎稲荷

安全地蔵尊は前日記の愛全公園のすぐ前にあった。
google map に表示された二つ目の公園を目指した後、水道橋駅の方に向かう。
この日の散歩ルート、神社が極端に少ないなあ・・・。



◆安全地蔵尊






◆西神田公園

学校が近く、学生が沢山いた。
てか、この辺の学校の数が半端ないね・・・・。
専修大、日大、大原・・・・・。




◆西神田

江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。当時の武家地には正式な町名がありませんでしたが、江戸城の北西一帯は、小川町(おがわまち)という俗称で呼ばれていました。
明治時代に入ると、武家地だった場所にも町名が付けられるようになります。明治五年(1872年)、ここに「猿楽町」や「中猿楽町」「今川小路三丁目」「西小川町一丁目(にしおがわまちいっちょうめ)」「西小川町二丁目(にしおがわまちにちょうめ)」といった町が成立しました。
このころ町内には、哲学者で啓蒙思想家でもあった西周(にしあまね)の屋敷がありました。その屋敷に明治五年から数年間、寄宿していたのが、小説「高瀬舟」などで知られる森鴎外です。ふるさとから上京したばかりの鴎外にとって、多感な少年時代を過ごした西周邸での生活は、忘れられないものだったに違いありません。
昭和九年(1934年)、表猿楽町(かつての猿楽町)と中猿楽町の北側が合併し西神田一丁目に、西小川町と今川小路三丁目の一部などが西神田二丁目となりました。「西神田」という町名は、当時の神田区の西側に位置していたため生まれた名前です。昭和四十二年(1967年)、西神田二丁目のうち、西側の一部の区域が分割されて西神田三丁目となっています。



小川町→おがわちょうって呼んでしまいそうになるけど「まち」なんだね。
周→あまね   読めないなあ・・・。



山田顕義(あきよし)先生之像




日本大学の学祖とのこと。
フランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信。
以後法律の研究に没頭したとのこと。
wikiのページを見ると、情報量がすごい。
あとでゆっくり見ることにする。


山田顕義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9



◆三崎稲荷神社

諸大名は参勤交代による江戸入りの際、必ず当社に参拝して心身を祓い清めることが慣例となり「清めの稲荷」と呼ばれていたとのこと。
ものすごい神社だったんだねぇ。



散歩は次のページで終わる。