2017/08/29 01 御茶ノ水散歩 01 駿河台東部/紅梅坂/ニコライ堂/名前のわからない社

24時間勤務アケで、御茶ノ水散歩。
水道橋を目指していたのだが、途中で予定変更。



駿河台東部




新御茶ノ水駅の前に町名板があった。

駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、「神田山」と呼ばれる丘陵でした。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって平川(ひらかわ)(現・飯田橋付近から一ツ橋を通り、海に流入していたといわれている)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発しました。そこで、隅田川に通じ、江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が分流として開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、独立した台地となりました。
元和(げんな)二年(1616年)、家康が駿府で没すると、家康直属の家臣だった旗本(駿河衆)がその任を解かれて江戸に戻りました。駿府から帰った駿河衆が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになりました。
現在の駿河台三丁目と四丁目にあたるこの地域は、明治時代は三つの町で、駿河台北甲賀町駿河台南甲賀町駿河台東紅梅町)と名付けられていました。甲賀という町名は、忍者で有名な甲賀者が多く住んだからとも、また甲賀者が勤める火消役屋敷があったからともいいます。紅梅町は、紅梅の大樹があった紅梅坂の名称とともに誕生した町名といわれています。
大きなドーム型のニコライ堂日本ハリストス正教会教団復活大聖堂)は、幕末から日本で布教を行っていたニコライ大主教が七年の歳月をかけ、明治二十四年(1891年)に完成させたもので、以来、この町のシンボル的存在になっています。関東大震災で被害を受けたものの、昭和四年(1929年)に復興され、国の重要文化財に指定されました。




◆紅梅坂




この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの名がつきました。淡路町に下る幽霊坂とつながっていましたが、大正一三年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」、「東紅梅町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり、もと埃坂と唱えしに、維新以後、淡路町幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり」とかかれています。





ニコライ堂

何度も見ているんだが、どんな建物なのかはよく調べたことがなかったなあ。
調べると・・・・


国の重要文化財
正式名称は「東京復活大聖堂」
イエス・キリストの復活を記憶する大聖堂とのこと。


ロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフが原設計。
ジョサイア・コンドルが実施設計を担当。
建築工事は長郷泰輔が請負い、施工は清水組(現・清水建設)。


まだまだものすごい量の情報が・・・。
今度ゆっくり調べよう。




◆名前のわからない社



社といっていいのかお堂といっていいのか・・・・。
今のところ調べても何もわからなかった。



散歩は続く。