2017/09/07 01 猿楽町散歩 01 吉郎坂/富士見坂/小川町三丁目(西部)/ホトトギス発行の地/飯田商店

24時間勤務アケで、お茶の水から水道橋の間、猿楽町あたりを散策してきた。
歩いた距離はそんなでもないのだが、坂ばっかりでちょっと疲れた。


スタートは御茶の水駅



◆吉郎坂


この前見つけられなかった石標を探しに行ったのだが、やっぱり見つけられなかった。



2017/08/29
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170829/1504620582






◆富士見坂



この坂を富士見坂といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河台南甲賀町の内、袋町に通づる筋より南へ、猿楽町一丁目と小川町との間を下る坂、富士見坂と呼ぶ。風景賞すべきの地にはあらざるも、遠く富士を望むを得べし。富士見坂の名もこれに基しか」とかかれています。富士見坂という名の坂は、千代田区だけでも三ヶ所あります。富士見町と九段の間、紀尾井町と永田町二丁目の間にあります。






◆小川町三丁目(西武)



江戸時代、小川町(おがわまち)は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉)が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んでいます。

安政三年(1856年)の絵図では、この界隈に寄合医師(よりあいいし)和田春孝、常陸土浦(ひたちつちうら)藩土屋家の上屋敷などが見られます。
明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理し、富士見坂を境に北側は猿楽町一丁目、南側は小川町となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。ちなみに富士見坂の名は、坂の上から富士山が見えたことに由来します。
明治時代の猿楽町一丁目には、英語、漢学、数学などを教える研精義塾(けんせいぎじゅく)、裁縫を教える裁縫正鵠(せいこく)女学校や婚姻媒介所などがありました。小川町には、西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑(にぎ)わう街でした。また、町内に過ごした昭和期の小説家永井龍男(ながいたつお)は、文藝春秋社で雑誌編集長を務めたのち、後年には文化勲章を受章しています。
昭和八年(1933年)の区画整理により、ここは小川町三丁目(おがわまちさんちょうめ)となります。昭和二十二年(1947年)に神田区麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目となりました。





ホトトギス発行の地


なんにもない!
と思ってよく調べてみたら、「まちの記憶保存プレート」というのがあった可能性が高い。
また行ってみよう。





◆飯田商店

たぶん、ココ。
解体中だった(汗
google mapに載っていたので来てみたが、WEBで調べても何も出てこない・・・・。



散歩は続く。