2017/09/07 02 水道橋散歩 01 小栗坂/皀角坂/神田上水懸樋跡/お茶の水分水路/神田上水懸樋(掛樋)跡

橋を渡って文京区に入ったのでエリア名を変えた。
場所はほとんどかわらない


水道橋については、
2017/08/27の日記で。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170827/1504490713


この日記の中で出てきた「神田上水懸樋跡」を見に行った。



◆小栗坂




 この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町一丁目と猿楽町三丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。明暦三年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。




◆皀角坂






 この坂を皀角坂といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については、『新編江戸志』に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ています。




神田上水懸樋跡



 江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための懸樋が設けられていました。
 神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿を命じ、大久保藤五郎は慶長年間(1596〜1615)に神田上水の整備に着手します。井の頭池善福寺池妙正寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。
 上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りへ懸樋で渡したといいます。
 上水は、この先は埋樋で供給されました。供給範囲は、南は京橋川、東は永代橋より大川(隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までといわれます。この一帯は埋め立てられた場所が多く、井戸を掘っても良い水が得られなかったようです。
 懸樋は、万治年間(1658〜1661)に架け替えられたため、俗に万年樋と呼ばれました。



開鑿=かいさく
開削と意味は変わらないかな?
読めなかった・・・・。




お茶の水分水路



分水路を調べると、放水路とあまり変わらないみたいだね。
洪水にならないように水を逃す水路のこと。






神田上水懸樋(掛樋)跡



こちらは文京区側。



江戸時代、神田川に木製の樋(とい)を架け、神田上水 の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
明治三十四年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。
この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。
この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。


続く。