2017/09/07 01 猿楽町散歩 03 カトリック神田教会/猿楽町/神田猿楽町町会詰所/講武所跡/認定登記基準点

講武所跡は「2017/08/27」に行きそびれた場所。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170827


白山通りの西側にあるのはそこだけで、他は東側にある。
水道橋駅はもうすぐそこ。



カトリック神田教会




今調べたら、「国の登録有形文化財」とのこと。
wikiで調べるとここもものすごい情報量・・・・。
後でゆっくり調べることとする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%95%99%E4%BC%9A





◆猿楽町




猿楽(のちの能楽)は、室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座(かんぜざ)」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田)一丁目〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町)」という名が生まれました。
この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、猿楽町という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことになります。
その翌年、神田錦町にあった錦坊学校(きんぼうがっこう)の分校が、現在の猿楽町一丁目内に設立されました。その後、錦華学校(きんかがっこう)と名前を変更したこの学校で学んだのが、近代日本の文壇に大きな足跡を残した夏目漱石です。漱石はこの小学校で学年を飛び越えて進級するほどの秀才ぶりを発揮したといわれています。
ところで、猿楽町と駿河台の間に、男坂・女坂と呼ばれる二つの坂があります。いずれも大正十三年(1924年)の区画整理でつくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りを強いられます。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼び習わされるようになりました。




◆神田猿楽町町会詰所



「景観まちづくり重要物件」と書かれたプレートがあった。


WEBで調べると、
大正5(1916)年に猿楽町駐在所として建設。
駐在所は廃止。(廃止された時期は調べても出てこなかった)
その後、町会の詰所として利用。
平成15(2003)年6月、千代田区景観まちづくり重要物件に指定。




講武所



 この標識の立っている前の道から神田川までの一帯に、かつて講武所がありました。
 講武所とは、ペリー来航後の政情から、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせる必要を感じて、幕府が設けた施設です。
 安政元年(1854)4月に、築地の下総佐倉藩堀田家中屋敷の跡地(中央区築地6丁目)に講武所が開校しましたが、安政四年(1857)に築地は全て軍艦操練所用地となり、講武所は移転を余儀なくされました。
 安政六年(1859)1月から、小川町の越後永岡藩牧野家上屋敷とその周辺が上地され、翌安政七年(1860)に移転しました。
 明治時代になると。陸軍の練兵場として使用されましたが、明治二十三年(1890)に三菱に払い下げられ、新たに三崎町という町ができました。



ここから神田川
結構広いね。



◆認定登記基準点



さっそく調べた。

登記基準点とは不動産投機に使用される世界測地系による基準点です。
土地家屋調査によって西暦2008年この場所に設置されました。


「東京土地家屋調査士会
とあったのでさらに調べてみた。


って、この後ろに建っているビルに入っているのか!
ビックリ(w


HPには
「東京土地家屋調査士会土地家屋調査士法第 47条第1項の規定により、東京法務局の管轄区域内に事務所を有する土地家屋調査士で設立された団体です。」
と書かれていた。


よくわからない・・・・。



次の日記では水道橋を渡って文京区に入るので、「水道橋散歩」にする。