2017/10/05 外濠散歩 01 三崎稲荷/新三崎橋/飯田町遺跡周辺の遺跡/讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡/竣功記念

24時間勤務アケに、一人で外濠散歩。
水道橋駅から市ヶ谷駅まで歩いた。



スタートの水道橋駅




近くのお店で見つけたポスター

このポスター見ると「琥珀の夢」を思い出す。
かなり色あせてるね・・・・。




◆三崎稲荷神社





2017/08/27
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170827/1504489711
この神保町散歩のときに写真を撮った際、車が写ってしまったので撮り直してみた。
境内の車は神主さんのだったのかなあ??7





◆新三崎橋






外濠の方に中央・総武線の橋があり、そのすぐ先に三崎橋がある。







◆飯田町遺跡周辺の遺跡




 江戸時代以降、この地域には日本橋川神田川といった河川があり、近くには水道橋の名前の由来となった神田上水が流れていました。もともと、この一帯は神田川下流の平川と小石川が合流する地点で、駿河台と麹町台地に挟まれた低地にあたり、絶えず水害の危険にさらされていた場所でした。
 元和6年(1620)、幕府は江戸城下の中心部を洪水から守るために、神田川の流路を船河原橋あたりで東へ曲げて、駿河台を掘りぬく現在の運河「神田川」を切り開きました。この工事によって、それまで日比谷入江に注いでいた平川を堀留(現在の堀留橋)で神田川から切り離し、江戸城外濠としました。「正保(しょうほう)年中江戸絵図
」には堀留の北側にも堀が延びており、工事後しばらくはこの付近まで平川の流路が残っていたことを示しています。
 平成12年(2000)に行われた飯田町遺跡の発掘調査では、讃岐高松藩上屋敷とともに、江戸時代初期の盛土や石垣、板の土留(とど)めの護岸を持つ幅10mの堀が発見されました。この堀は、先の「正保年中江戸絵図」に見える平川流路の名残と考えられ、明暦3年(1657)の大火直後に埋め立てられたことがわかりました。
 その後、神田川や外濠には、水運に利用された多くの河岸が設けられました。明治維新後、此の地は神田川の対岸を含めて陸軍用地となり、明治28年(1895)には甲武鉄道田町駅が開業、明治36年(1903)には日本橋川を再度開削して神田川に接続させ、陸軍用地を中心に水運と鉄道をつなぐ貨物のターミナルになりました。
 このように、この一帯は古くから河川とともに歩んできた地域でした。飯田町遺跡の発掘調査によって、江戸時代初期の堀跡や大規模な盛土による造成工事の様子が明らかになりました
。そこには当時の人々の水害を防ぐ努力を見ることができます。




◆讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡




 飯田橋二丁目から三丁目に広がる飯田町遺跡からは、現在の香川県高松市を国元とする讃岐高松藩上屋敷の遺跡が発掘されました。12万石の領地を支配した高松藩松平家は、初代藩主松平頼重水戸藩 2代藩主徳川光圀 の兄にあたり、徳川御三家であった水戸藩とはゆかりの深い大名でした。高松藩上屋敷は宝永3年(1706)に幕府から与えられたもので、藩主が住み、政務を執り行なった屋敷です。向かいには高松藩中屋敷があり、神田川の対岸、現在の小石川後楽園一帯には水戸藩上屋敷をかまえていました。江戸城北方の神田川を挟んだ地域に、関係の深い高松藩水戸藩上屋敷を与えられていたことになります。
 飯田町遺跡では、現在の地表面の約1m下から、讃岐高松藩上屋敷の御殿をはじめ、庭園、上下水道、穴蔵(地下室)などの遺構が発見されました。そのなかには、写真のように大きな礎石の下に土台の木を敷いた土蔵跡や、杭を多数打った上に礎石を据えた御殿跡があり、軟弱な地盤に備えた入念な基礎工事の様子が明らかになりました。
 この土蔵跡の礎石は、この地に江戸時代の大名屋敷があったことを伝えるために、川沿いの遊歩道のベンチに再利用しています。




◆竣功記念




事業名称 千代田区飯田町土地区画整理事業
施工地区 千代田区飯田橋二丁目の一部
     千代田区飯田橋三丁目の一部
地区面積 50,069.54?
施工期間 平成10年3月〜平成14年9月


と、書かれていた。



散歩はまだ続く。