2017/10/24 03 大手町散歩 電話交換創始の地/呉服橋跡/電力中央研究所/サンケイビル(箱根駅伝)/江戸城築城

三菱UFJ信託銀行博物館の後は竹橋の方に向かって歩く。
2017/08/27にもこの辺に来てるので、なるべく違う道を通って歩くことにする。



◆電話交換創始の地




東京電話交換局跡
明治廿三年十二月十六日開始
紀元二千六百年 逓信省



東京・横浜間の電話交換所で、日本初の電話交換業務が開始された場所とのこと。
もちろん横浜側にもある。
2017/08/27にも一度来たのだが見つけられなかった。





◆呉服橋跡




 以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋門がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。
 「御府内備考」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
 古くは後藤橋といへり。〔寛永中江戸絵図〕呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。〔江戸紀聞〕今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼名なるべし。(後略)
 これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624〜1643)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
 なお、外堀が昭和二十九年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含めて外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。



こちらはJRのガード下をくぐって日本橋側になる。
やはり2017/08/27に来たのだが、見逃してしまったところである。
google map のマークの場所がちょっとずれているので参考にしている人は注意した方がいいと思う。




電力中央研究所




今までいろんな地区の電力中央研究所に行ってきたが、こちらが総本山かな?
こちらは一般公開日がないのだが、申し込めば見学できるのかなぁ。
(でもデスクしかなさそう)





サンケイビル

こちらは読売グループの総本山だね。
仕事では何度も来たことある。
箱根駅伝のスタート、ゴールになっている場所はこの近く。



ということで、やはり駅伝関係のがあった。






 箱根駅伝1920年大正9年)に誕生しました。創設者は金栗四三(かなぐりしぞう)(1891~1983)。日本が初参加したオリンピック のマラソンランナーでした。1912年(明治45年)、東京高等師範(現筑波大)の学生だった金栗は、日本人初のマラソン代表としてストックホルム五輪に出場したものの、途中棄権に終わりました。その時の屈辱と経験をもとに、「世界に通用するランナーを育成したい」と、長距離ランナーのための大会を模索したのです。そうした中、1917年(大正6年)、日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都・三条大橋と東京・上野不忍池間で行われました。読売新聞社が上野で開く大博覧会の記念イベントとして企画され、京都−東京516キロを23区間に分け、3日間、昼夜兼行で走り継ぐ、壮大なたすきリレーでした。東西の学生らが参加したこのレースは大成功を収め、これが箱根駅伝の”原形”となったのです。この駅伝で自らアンカーを務めた金栗らは大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて呼びかけ、早稲田大、慶応義塾大、明治大、東京高等師範が応じ、1920年大正9年)に「四大専門学校対抗駅伝競走」が行われました。これが記念すべき第1回大会となったのです。
戦時中は、情勢悪化のため5年間の中止を余儀なくされた箱根駅伝ですが、選手たちの熱い想いで今日まで受け継がれています。





 箱根駅伝が、大手町の読売新聞社前をスタート、ゴールとすることは、今やすっかりおなじみとなりましたが、この場所が発着点に落ち着くまでには幾度かの変遷をたどっています。1920年の第1回大会は、有楽町の旧報知新聞社前を発着するコースで行われました。第2回、第3回大会は、そこから近い日比谷公園内の音楽堂前を発着点にしています。1923年の第4回大会で、発着点は再び有楽町の旧報知新聞社前に戻り、1940年の第21回大会まで行われます。
第二次世界大戦中は、1943年のみ開催されました。靖国神社大鳥居前から箱根神社を往復するコースで行われています。戦後に大会が復活したのは1947年。その第23回大会は読売新聞旧有楽町社屋前、翌年の第24回大会は読売新聞旧銀座社屋前、そして第25回以降は、同社屋横をスタート、ゴールとして行われました。
読売新聞社の大手町移転に伴い、1972年の第48回からは大手町社屋の北側をスタート、ゴールするコースで行われます。1999年の第75回大会で、10区が日本橋を通過するコースに変更になったことに伴い、ゴールは現在の読売新聞社の南側に移りました。
箱根駅伝の大手町ゴールは、これからも多くの選手達の歓喜と涙を、見守っていくでしょう。





先ほどの碑とこちらは平成13年に90回目を記念して建てられたとのことなので、見たことあるはずなんだけど覚えてない(汗





このあたりがゴールだったような気がする。




江戸城築城





 左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は,道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550年に当たります。
 この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標とします。
 太田道灌(1432〜86)は室町中期の武将で歌人、名は、資長(すけなが)、道灌は法名扇谷上杉家重臣、1457年、この千代田の地に江戸城を築く、文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された、江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。

「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」






右側にある碑は「まちの記憶保存プレートガイド」


江戸城は、上杉家の家臣太田道灌(1432〜1486)によりはじめて築かれた。
のち、徳川氏15代の居城となり、明治初年より皇居となった。



散歩はまだ続く。