2017/10/24 07 九段散歩 01 蕃書調所跡/築土神社/硯友社跡/山口萬吉邸/濠北方面戦没者慰霊碑

九段下のこの辺りもまったく未開の地だったなあ。
硯友社跡あたりを頂上にした山みたいな地形であった。
坂がきつすぎ。



九段下駅



◆蕃書調所跡

奥に昭和館が見える。




 庵税三年(1856)に、江戸幕府は竹本図書頭拝領屋敷上地である当地に、蕃書調所を設けました。
 蕃書調所は、最初「蕃書和解御用」として洋の書籍を解読して海外事情を調査するために設置されました。その後、幕臣・諸藩の家臣らに対して西洋の文物を教育する機能も加わります。また、画学局も置かれ、明治期に活躍した西洋画家たちも多数学んでいます。
 のち神田一橋通りに移転して、洋書調所、さらに開成所と改称しています。明治二年(1869)に、大学南校となり、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身です。






築土神社



狛犬






 本狛犬は、台座部分もあわせると高さ1.5メートルほどになる一対の石像です。左右の像とも本殿から見た面に「元飯田町」「惣氏子中」「安永九庚子十一月」との銘文が刻まれています。

元飯田町というのは、現在の富士見1丁目および九段北1丁目あたりのことです。天正18年(1590)の徳川家康の関東入国ころより、中坂や九段坂の咲かした一帯を飯田町と称していましたが、元禄10年(1697)の葛西で町が築地に移されて南飯田町となった際に、九段中坂一帯に残った町地を元飯田町と呼ぶようになりました。

 社殿によれば築土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久戸明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して築土明神となり、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年(1945)空襲で社殿などを悉く焼失し、昭和29年(1954)には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。
 元飯田町の住人が本件狛犬を奉納した安永9年(1780)には、築土神社は彼等の居住地から少し離れた場所にありました。元飯田町の住人は、自分たちの信仰の対象である神社が牛込に遷座したあとも変わらぬ信仰を続け、いわばその証として本資料を奉納したのだともいえます。
 また、本件狛犬の一方の頭上には「角」が、また他方の頭上には「宝珠」がのせられています。これは厳密な意味で前者を「狛犬」、後者を「獅子」と意識して区別したことの表れであると思われます。

 区内の寺社などに現存する最古の狛犬であるこの築土神社狛犬は、私たちに築土神社の江戸時代の信仰の広がりを伝え、かつて千代田区域に居住していた人々の暮らしと信仰の様子を語りかけつつ、九段の一隅に佇んでいます。




力石




 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。
 古来、わが国民間振興では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは意思を依代としている神々も多い。
 また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
 境内にある「力石」の由来は詳らかではないが江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。
 なお「力石」に刻まれている「元飯田町」とは、「中坂」を南北にはさんだ現九段北1丁目にあたり、江戸時代からの町名である。




世継稲荷神社



奥にも小さなお稲荷さん






千代田区都市景観賞と書かれたプレートがあった。




硯友社

後ろの建物は「和洋九段女子中学校高等学校」って書いてあるね。



 この地に明治時代の文学結社、硯友社 の社屋がありました。
 硯友社は、明治十八年(1885)二月、尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案 らで結成され、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊、同ニ一年市販されるにおよび明治二〇年代の文壇に多くの影響を与えました。
 同人には、川上眉山巌谷小波広津柳浪 らも参加しています。
 明治三〇年代以後衰退し、紅葉の死によって消滅しました。




◆山口萬吉邸

昭和2年(1927)に新潟の長岡に本拠を置く事業家・山口萬吉氏の邸宅として建てられたとのこと。
WEBで探すと山口萬吉氏に関する情報が少ない。
この邸宅はたまに中を公開してくれるみたいなので、今後チェックしようと思う。
その時に詳しいこともわかるであろう。




◆濠北方面戦没者慰霊碑



南十字の星の下 身を捧げた友のあゆんだ途は遠く険しかった今は昔ながらの故国に生きて立ち直る国の礎となっている御霊に限りない敬意と溢れる愛情を覚え不変の石に心をこめて亡き友よ永遠に安かれと祈って此処にこれを建てる



濠北というのはオーストラリア北方の島々のことみたい。
第二次世界大戦でこのあたりで亡くなった方の慰霊碑。
濠=オーストラリア



散歩はまだまだ続く。