2017/10/26 02 蘆花恒春園

近くの世田谷文学館にはよく来ていたのに、こちらは初めてである。
勝手に小さい公園をイメージしていたが、ものすごく広くてビックリした。



正門



徳富蘆花旧宅跡




 徳富蘆花は、肥後国葦北郡(あしきたぐん)水俣村手永、(現在の熊本県水俣市)に代々惣庄屋を勤めた徳富家の三男として、明治元年(1868)10月25日(旧暦)に生まれました。名は健次郎。明治三十一年から翌年にかけて「国民新聞」に連載した長編小説「不如帰(ほととぎす)」が明治文学の中でも有数のベストセラーとなった。
 明治四十(1907)年2月27日に青山高樹町の借家から、北多摩郡千歳村字粕谷のこの地に転居した。トルストイの示唆を受け、自ら「美的百姓」と称して晴耕雨読の生活を送り、大正2年(1913)に6年間の生活記録を「みみずのたはこと」として出版、大正7年(1918)には自宅を恒春園(こうしゅんえん)と名付けた。昭和二年七月に群馬県伊香保に病気療養のため転地するが、同年九月十八日駆けつけた兄猪一郎(蘇峰)と会見したその夜に満58歳で死去した。墓所は旧宅の東側の雑木林の中にあり、墓碑銘は兄蘇峰の筆による。
 昭和十二年(1937)蘆花没後10周年に際し愛子夫人から建物とその敷地及び蘆花の遺品のすべてが当時の東京市に寄付され、翌年2月27日「東京市蘆花恒春園」として開園した。
 この旧宅は、母屋、梅花書屋、秋水書院の3棟の茅葺き家屋からなり、これらは渡り廊下によって連結されている。「美的百姓」として生きた蘆花の20年間にわたる文筆活動の拠点であり、主要な建物は旧態をよく留めている。




恒春園の名の起り

住居の雅名(がめい)が欲しくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園(こうしゅんえん)と命名しました。台湾の南端に恒春と云ふ地名があります。其恒春に私共の農園があるといふ評判がある時立って其処に人を使ふてくれぬかとある人から頼まれたことがあります。思もかけない事でしたが、縁起の好いので、一つは「永久に若い」意味を込めて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名付けたのであります。




愛子夫人居宅






 この建物は蘆花夫人の愛子さんが、昭和二十年九月十八日蘆花没後十年を期して、東京市に土地・建物・遺品などの一切を寄付し、翌十三年二月二十七日蘆花恒春園が発足するに際して、夫人の要望に基づき、夫人の当面の住まいとして当時東京市が新築したものです。
 しかし、愛子夫人が実際に居住したのは昭和十四年十一月までと短い期間でした。と言うのも、現在「花の丘」として蘆花恒春園の一部に編入されている区域に当時野外のゴミ集積所がつくられ、風向きによるその悪臭にほとほと悩まされたことが大きな理由のようです。このため夫人は三鷹台に土地を借り家を新築し、日常はそちらに住みました。
 愛子夫人は後に熱海に転居し、そこで昭和二十二年二月二十日永眠しました。その遺骸は本園のくぬぎ林内の蘆花の墓地に一緒に埋葬されました。
 なお、この建物は後に、公園施設の集会場として公開され以後多くの人に利用されております。



茅屋(ぼうおく)




僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。其筈さ、先の家主なる者は素性知れぬ捨子で、赤子の時村に拾はれ、三つの時に人に貰はれ、二十いくつの時養家から建てゝ貰った家だもの。其あとは近在の大工の妾が五年ばかり住んでいた。 即ち妾宅さ。投げやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、 壁は落ち放題、床の下は吹通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、 些真剣に降ると黄ろい雨が漏る。 越してきたのは去年の此頃(註明治四十年二月末日指す)雲雀は鳴いて居たが、寒かったね。日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押し寄せて来る武蔵野の春寒、 中々春寒料峭位の話ぢゃない

国木田哲夫兄に與えて僕の近状を報ずる書



梅花書屋




この建物は、 蘆花が1909年(明治四十二年)三月に松沢町北沢(現、世田谷区)に売家があるとの情報で早速見に行って手付けを渡し、四月二十日に建前を行い、五月三十日に全部終了した。
母屋との間は、踏石を渡って往復した。 梅花書屋の名称は、この家に掲げられてある薩摩の書家鮫島白鶴翁(西郷隆盛の書道の師)の筆になる横額によるものであり、 この額は蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。
梅花書屋の命名以前には、単に「書院」、後に「表書院」と呼ばれた。
現在ある梅花書屋、 秋水書院、 母屋をつないでいる廊下は秋水書院完成後につくられたものである。




秋水書院




 この建物は、 蘆花が烏山に在った古屋を買い取り移築し、1911年(明治四十四年)一月から春にかけて、建て直したもので通称「奥書院」の名がある。 建前は一月二十四日であった。 その日蘆花は当日の午後になってから判ったのだが、当時世間の耳目を集めた大逆事件の犯人とされた幸徳秋水以下十二名の死刑執行の日であった。
蘆花は大逆事件については冤罪であると、大きな関心を寄せていたが一月中旬に十二名が死刑判決を受けたことを知ると兄蘇峰及び桂総理宛に再考の書簡を出した。
 また一月二十二日には、 第一高等学校(現東京大学)生徒の弁論部員が演説を依頼にきたので、とっさの思いつきで「謀叛論」と題し二月一日を約束し、 当日は草稿も持たず会場に溢れんばかりの生徒たちを前に演説した。
かくして奥書院は同年春に完成した。 蘆花夫婦はこの建物を「秋水書院」と名付けたが、 一般に「秋水書院」と呼ばれるようになったのは戦後のことである。



お地蔵様



地蔵様が欲しいと云ってたら甲州街道の植木なぞ扱ふ男が、荷車にのせて来て、 庭の三本松の蔭に南向きに据えてくれた。八王子の在、高尾山下淺川附近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一體だと云ふ。眼を半眼に開いて、合掌してござる・・・。





蘆花夫妻墓碑




 (この墓に眠る人は、徳富健次郎といい号を蘆花(芦花)と称した)
 「1868年12月8日(明治元年10月25日)熊本県水俣市で生れ、父は徳富一敬、号淇水、母は久子矢島氏の出である。兄に蘇峰徳富猪一郎がいる。芦花の幼時はひよわであったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け教導されて、その性格が形づくられた。中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は、広く世間に読まれ多くの読者に好まれた。
 芦花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。しかし、ついに子供には恵まれなかった。伊香保の療養先で、最期に臨んで、兄に後事を頼み、心静かに永眠した。数え60歳である。ときに1927(昭和2)年9月18日のことであった。芦花は生れつき真面目で意思強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった。
 また、与えることが多く、愛情を持って人々に接した。文章をつくるにあたっては、さまざまな思いが泉のように湧き出て、つぎつぎと言葉が流れ出るようであった。芦花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに躍動し、ひたすら真善美を追求することに努めた人生であった。遺骸は、粕谷恒春園の林の中に持ちかえり埋葬された。これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところでもあった。 




(ここに葬られているのは、芦花徳富健次郎の夫人愛子である。)
女史は原田氏の出で、名は藍子、後に愛子に改めた。1874(明治7)年に熊本県菊池(隈府)市に生れ、長じて東京女子高等師範学校お茶の水女子大学)に学んだ。ある日、私のところへ兄原田良八が同行して来た。一見して弟の妻に好ましいと思い、弟の意向を聞き、老父母にも相談し、卒業後婚姻が成立した。
女史は才色ともにめぐまれ、態度はつつしみ深く、精神は、しっかりして動揺することがない。夫婦生活三十四年間、心は一つとなり、相愛し、相たすけた。芦花が大をなし得たのは、女史の内助によるところが大きい。
芦花死去後、二十余年をひとり生きて、自身の病弱をおして、芦花の遺著を整理刊行し、また後々の計画を定めた。すなわち十回忌に恒春園の土地と邸宅一切を東京都に寄贈し、芦花記念公園としたのである。
女史は1947(昭和22)年2月20日、熱海の仮の住居で永眠した。数え年七十四歳、遺骨は芦花の左隣に葬られた。




下曽根信守墓




明治四十年(一九〇七)、盧花はこの墓地の西側に移り住みました。
「み々ずのたはごと 墓守」に
(彼(盧花)は粕谷の墓守である。彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。誰が命じたのでもない、誰に頼まれたのでもないが、家の位置が彼を粕谷の墓守にした。)
と書いています。これが粕谷の共同墓地で「粕谷の二十六戸」の共同所有地になっています。
盧花も永代所有権を買って、「粕谷の土」になると決め、現在ここに埋葬されています。
盧花が千歳村粕谷での田舎住居をはじめるきっかけとなった千歳教会堂に勤めた下曽根信守牧師も、ここ共同墓地に埋葬されました。
下曽根牧師は、調布町布田の布教所時代より千歳村の人々の信頼が厚く、最後は皆に看取られました。盧花も「み々ずのたはごと 読者に」の中で下曽根牧師への追悼を述べています。墓石の裏には略歴が彫り込まれています。




蘆花記念館

蘆花の作品、原稿、遺品などが展示されている。
中は撮影禁止だった。
蘆花について全く知識がないので頭に入ってこなかったなあ。
予習が必要だね。
勉強してまた行ってみようと思う。





散歩はまだまだ続く。