2017/11/02 01 紀尾井町散歩 01 麹町四丁目/夏の思い出/旧李王家邸/諏訪坂/赤坂御門跡

お休み♪
ワニガメさんと紀尾井町と仙川散歩。
スタートは四ツ谷駅紀尾井町散歩から。




◆麹町四丁目




この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向かう「国府路(こうじ)」があったからともいわれています。実際に近所では、地下に数ヶ所の麹室も見つかっています。
現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋がつくられたのは、徳川家康の江戸入府後のことです。通りの南側は谷地でしたが、寛永のころ(1624年〜1644年)、四谷堀を掘ったときに出た土を使って埋め立てられたともいわれています。町屋の北側は寺や火除地(火事の延焼を防ぐ空き地)に、南側は旗本が多く集まる武家屋敷になりました。安政三年(1856年)の絵図には、出雲松江藩松平家上屋敷などが見られます。
一方このあたりは、うなぎの蒲焼伊勢屋や丹波屋、江戸切絵図の版元として名高い尾張屋、麹町で一、二を争う呉服商の伊勢八、尾張藩御用達をつとめる菓子店の亀沢(かめざわ)などが店を構え、江戸の高級商店街のひとつでした。また、赤穂浪士が吉良邸討入り前に名前を変えて隠れ住んでいた家もあったと伝えられています。
町内には井戸がたくさんあったようで、大正十二年(1923年)の関東大震災のときには、断水した多くの家庭を救いました。
明治・大正期になっても引き続き商店街として発展してきた麹町四丁目ですが、現在はビルの立ち並ぶビジネス街へと変わっています。




◆夏の思い出

銅像が建っていた。
しかも消防服を着ていた!
誰か管理している人がいるのだろうね。




◆旧李王家邸 「旧グランドプリンスホテル赤坂 旧館」

文化財ウィークの特別公開。
運が良ければ中をいっぱい見られたはずなんだが、今回は少ししか見られなかった。
残念。


1930年に旧宮内省内匠寮の北村耕造と、技師の権藤要吉らの設計により昭和5年に旧李王家の邸宅として建設された。
その後は赤坂プリンスホテルの旧館として使われた建物。
2011年には東京都指定有形文化財に指定される。










 2011年(平成23)年、旧李王家東京邸(現赤坂プリンスクラシックハウス)の保存工事の過程で地中より旧白川宮邸洋館の煉瓦積基礎が発見された。
 この地は、紀伊徳川家江戸上屋敷で、明治時代になって北白川宮能久親王に下賜され、1884(明治17)年に洋館を中心とする大規模な殿邸が建設された。洋館は煉瓦造2階建(一部3階)の壮観なゴシック建築で、設計者はジョサイア・コンドルであった。その後、北白川宮邸洋館は1894(明治45)年、北白川家は高輪南町の新邸に移転し、跡地には1930(昭和5)年に李王家東京邸が建設された。
 発見された煉瓦基礎には上質の煉瓦が用いられており、目地にセメントを用いた丁寧かつ堅牢な造りであった。この以降はその一部で、玄関ポーチの独立柱の基礎であったと考えられる。

ジョライア・コンドル
1852(嘉永5)年〜1929(大正9)年
 1877(明治10)年に工部大学校造家学教師および工部省営繕局顧問として来日し、終生を日本で過ごしたイギリス人建築家。日本人建築家の養成と西洋建築の導入に大きな功績を残した。主な作品に鹿鳴館(現存せず)、ニコライ堂(現存)、三菱一号館(復元)、岩崎久彌邸(現存)など。




◆諏訪坂




この坂を諏訪坂といいます。「新撰東京名所図会」には「北白川宮御門前より赤坂門の方へ下る坂を名づく。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり」と記されています。道路の向かい都道府県会館の敷地には、江戸時代に旗本諏訪家が長期間屋敷を拝領していました。また、別名を達磨坂ともいいますが、旧北白川宮邸が紀州藩であった頃、その表門の柱にダルマににた木目があったため達磨門とよばれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂と呼ばれたためです。



◆赤坂御門跡




左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸時代の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」 とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された 「枡形門」の形式をとっています。詳しい説明は、右に坂を登った角にある説明版に記されています。




 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門 の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城 の門は、敵の侵入を発見する施設であるため「見附)」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門 や桜田門 には同じ形式の門を見ることができます。
 赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩黒田忠之 により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則 によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でも有りました。
 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。




散歩はまだまだ続きます。